今日は安城ふるさとガイドの会のメンバーである本山さんに、
安城と岡崎地区の史跡の案内して頂くべくお願いしてある。
宿泊しているホテルまで迎えに来て頂いて、最初に訪れたのは、岡崎市門前町にある隨念寺である。
1562年に家康が開山した隨念寺には、清康と清康の妹の久子の墓があるが、立ち入り禁止になっている。
松平清康は家康の祖父であり、妹の久子は家康が今川氏の人質の時代に唯一岡崎にいた人物である。
実は、隨念寺は70年以上前から何度も訪れている。 というのは、隨念寺には、祖父母の墓がある。
今まで、清康の墓があることは、誰も教えてくれなかったので、この歳になって初めて知った訳である。
門前町から南に下がり、矢作川に架かる渡橋を渡ると、竜南メーンロードの諏訪交差点があり、
南の田圃の中に「渡古戦場跡」がある。
その地に、諏訪神社があり、神社の境内の北端角に「渡古戦場跡碑」が建てられている。
渡古戦場は、清康の子広忠と三ツ木城主信孝が戦ったところである。
岡崎城乗っ取りを企てた信孝は鳥居忠宗の奮戦により敗走した。
渡古戦場の後は、県道294号西尾小川線に面した、安城市野寺町にある本証寺を尋ねる。
本証寺の山門の両側の内堀には、毎年、紅白の蓮の花が咲く。 本証寺は1206年頃、親鸞門侶の慶円により開創された。
本証寺は真宗大谷派の寺院で野寺御本坊とも呼ばれていて、上宮寺、勝鬘寺と並んで三河触頭三ヶ寺の一つである。
戦国時代には、三河一向一揆の拠点となった。 本証寺は鼓楼や土塁を備え、水濠に囲まれた城郭寺院(城郭伽藍)である。
堀と鼓楼の組み合わせは、本証寺の代表的な風景である。 外堀は殆ど埋没したが、内堀は今も寺を囲んでいる。
本堂は、地方の真宗寺院本堂としては比較的大型であり、一揆から100年後の1663年に再建され、県指定文化財になっている。
本堂の欄干の擬宝珠には、寄進者の名が刻まれている。
経蔵は1823年に建立され、腰壁には海鼠壁が用いられている。
1703年に建立された鐘楼は、大寺院特有の脇柱を持ち、龍、獅子などの彫刻も秀逸である。
内堀に架かる龍宮橋を渡って、本堂と庫裏を行き来することができる。 内堀は本堂を囲んでいて、蓮の花が植えられている。
庫裏に通じる本証寺の裏門は薬医門という形式で、18世紀前半に建立された。
庫裏、一部を他から移築して、1830年に再建された。
本証寺の外堀は殆ど消滅したが、庫裏の北側には空堀として残っている。
外堀などは、現在、本証寺境内地保存活用基本計画によって整備中である。
本証寺から岩根城址へ向かう。 岩根城址の説明版の横には、秋葉神社と秋葉山の常夜燈がある。
岩根城址から北西200m離れた所には、加藤家の墓がある。
墓誌には加藤嘉明(ヨシアキ)は長良で生まれ、幼少の頃岩根に来たと記してある。
岩根城址と加藤家の墓を訪れた次は、真宗大谷派の松韻寺に来る。
松韻寺は奈良朝時代後期に長松寺の一隅に創建され、本尊阿弥陀如来絵像の裏書には1505年に釈源正が創立したとある。
松韻寺の本堂の南に、白馬(聖徳)太子の蝦夷征伐の絵伝に出てくる「鞭受けの岩」がある。
絵伝によると、太子が金の鞭で打ち払い、三つに割れた岩の一つだとのことである。
松韻寺に隣接して、奈良時代初期の古代寺院跡である寺領廃寺跡があり、10世紀前半に伽藍が廃絶した
発掘調査の結果、金堂、講堂、東塔、西塔、回廊の遺構が確認されている。
松韻寺の境内には、寺領廃寺の西塔の心礎の礎石の一部があり、1737年の本堂再建の時、土台石として使われた。
寺領廃寺の西塔の心礎の礎石は二つあり、もう一つは寺領廃寺西塔跡に見られる。
寺領廃寺跡を離れて、藤井松平の故郷にある「藤井」を訪れる。
藤井戸の井泉は、碧海台地の南の端、木戸と藤井の間にできた開析谷の奥に湧き出した清水の井戸である。
綺麗な清水で、藤の花のようだというので、藤井と呼ばれるようになった。
藤井は古井、桜井、浅井と並んで、三河国の四井の一つに数えられた。
姫命によって穿れたと伝えられる藤井は、地名の起源になり、藤井松平として全国に知られるようになった。
藤井の後は、藤井松平の城館があった藤井城址を訪れる。
安城松平氏は16世紀初頭、一族を福釜、桜井、藤井に配置し、藤井城は南の東条氏・吉良氏に備えた。
二代目信一は下総国相馬郡布川へ移り、藤井城は廃城になった。
本証寺
地図の中央の矢印が本証寺です <愛知県安城市野寺町野寺にて>
隨念寺と本証寺を、下記の「隨念寺と本証寺」のボタンをクリックして51枚のスライド写真でご覧ください。
藤井城址から200mほど北にある、真宗大谷派の安正寺へ来る。
安正寺の由来は、1600年頃松下円平綱親が藤井山長円寺に入山し、1683年に安正寺と改称した。
安正寺の本堂は1779年に建立され、阿弥陀如来像を本尊とする。 安正寺境内の紅葉は丁度見頃であった。
安正寺の境内には、104歳で亡くなられた富田勘一氏が寄進した「長寿の岩」がある。
長寿石を撫ぜてから、安正寺を出て、三河地震追憶の碑へ。
安正寺の北西に隣接して、県道294号西尾小川線沿いに三河地震追憶の碑が建っている。
昭和20年1月13日未明に起こった三河地震は藤井の集落の殆どの家屋を倒壊した。
藤井の集落から、宝泉院に向かう途中、福釜町西天交差点角に、福釜城主松平家塋(墓)地是より1丁余の標柱がある。
西天交差点から西へ歩き、二つ目の十字路を左に入ると、左手に福釜松平家3代の墓所がある。
釜松平家の墓は、右側から、初代親盛、二代親次、三代親俊と並んでいる。
福釜町西天交差点の北には、福釜松平氏の菩提寺である宝泉院がある。
宝泉院は1515年に福釜城主松平親盛が良心寺を創建し、その後宝泉院と改名した。
福釜松平家は旗本止まりで、松平一族の中では優遇されなかった。
境内には、1639年に松平康盛によって建てられた福釜天神がある。 御神体は菅公の御親筆になる肖像画である。
宝泉院の近くに、開墾地を美田に変えた経世済民の人「杉浦源右衛門」の銅像が立っている。
福釜町西天交差点から県道295号道場山安城線を南西に走ると、右手に西岸寺がある。
西岸寺は1489年に松平玄番が開基したとの記録が過去帳にある。
西岸寺の本尊は木造阿弥陀如来立像で、1667年に本山より授けられた。
寺号は松林山西岸寺で真宗大谷派である。 西岸寺境内の黄葉を楽しむ。
西岸寺境内には、住職で教育界に貢献した、松林了観夫妻の石像や、
御茶附銀杏、土地改良に貢献した杉浦彦衛胸像などがある。
安城市の福釜から、最後の目的地である岡崎市の松応寺に向かう。
松応寺は電車通りを北上し、能見通りの能見通二丁目交差点で西に左折して路地に入る。
交差点から二つ目のアーケードの様な路地を、更に右に入ると目的の松応寺がある。
松応寺の民家に囲まれた寺域は違和感がある。
松応寺は1560年に家康が松平広忠菩提のために、隣誉月光に開山させた。
広忠公が逝去した時は、家康は八歳で、自ら墓上に松を植えた。
岡崎城主になった家康は、成長した松を見て「我が記念に応ずる松なり」と言われた
松平広忠公御廟所の門の両側にある、400年前に土だけで作られた御廟所の土塀は風雨で崩壊し現在修復中である。
土塀の瓦には葵の御紋が見られ、壁には5本の線が入っていた。
家康公はここで、松を見ながら親を想い未来を見つめた。 松応寺は「祈念に応ずる松」による。
霊廟には建物や石造物は見られず、只、松が植えてあるのみである。
家康の旅は、記憶の片隅にある、線路脇で見慣れた「はせべ」の鰻で締めくくり、ホテルアソシア豊橋に向かう。
松応寺
地図の中央の矢印が松応寺です <愛知県岡崎市松本町2丁目にて>
安城と岡崎の松平の遺跡を、下記の「安城と岡崎の松平の遺跡」のボタンをクリックして46枚のスライド写真でご覧ください。