鑁阿寺と足利学校         2019年9月20日



 1564年の再建された山門の両側の仁王尊像は鎌倉時代運慶の作と云われている、         100名城に指定されている鑁阿寺の国宝の本堂

 ルートイン渋川にて、北関東ドライブ旅行の2日目の朝を迎える。  ルートイン渋川は渋川伊香保インターの北側、国道17号線沿いにある。  ホテルを出て渋川インターから関越自動車道に入り、北関東自動車道を経て、太田桐生インターから足利市に入る。  足利市の散策は、大日大門通りの東側にある征夷大将軍足利尊氏公像の前からスタートする。  大日大門通りの突当たりに鑁阿寺の山門が見える。 通りにある、まちなかマップで行く先をチェックする。  大日大門通りを、日本100名城に指定されている鑁阿寺の山門に向って歩く。
 山門の前には太鼓橋があり、右手に、「史蹟 足利氏宅阯」の石碑がある。 山門は仁王門又は楼門と呼ばれ、1564年の再建である。  山門の両側の仁王尊像は鎌倉時代運慶の作と云われている。 太鼓橋は反橋と呼ばれ、楼門と共に、江戸時代安政年間の再修である。  楼門は構造雄大、手法剛健、入母屋造り、行基葺きで、足利幕府13代将軍足利義輝の再建である。  山門を潜ると、参道の正面に国宝の鑁阿寺本堂が見える。 本堂に向かう参道の右手、鐘楼の前に、弘法大師御像がある。  参道の左手には、多宝塔と樹齢550年高さ50mの天然記念物である大銀杏がある。  多宝塔は相輪の宝珠に1629年の銘がある。 徳川氏が祖先の菩提供養のために再建寄進した。  参道の右手には、1196年に足利義兼が建立した重要文化財の鐘楼がある。 梵鐘は元禄時代の再鋳である。
 参道の突き当りにある、国宝の鑁阿寺本堂は、1197年に足利義兼が持仏堂として建立したのが最初である。  その後、1129年に火災で焼失したが、足利貞氏が1299年に再建した。  本堂は、鎌倉時代に、中国の最新の寺院建築様式の一つであった禅宗様を取り入れられている。  密教寺院における禅宗様仏堂の初期例として、貴重な文化財である。  不動堂と呼ばれている中御堂は、寺伝では足利義兼公の創建とある。  現在では、生実御所国朝による、1592年の再修とされている。  御本尊不動明王は成田山より勧請したもので、興教大師の作と云われている。
 経堂は足利義兼が妻の供養の為、鎌倉時代に創建された。  現在の重要文化財の経堂は、1407年に関東管領足利満兼により再建された。 堂内に八角の輪蔵があり、一切経二千余巻を蔵する。  本堂の北側の広場に出ると、左から、本堂、不動堂、多宝塔と並んでいる。  広場の北側には、右から大黒堂、大酉堂、御霊屋が並んでいる。  御霊屋は徳川十一代将軍家斉の寄進で再建された。  大酉堂は古来武神として、武門の信仰篤かった。 大黒堂は校倉や宝庫とも称する。 1980年に半解体修理が実施された。  足利義兼の妻時子をお祀りしている蛭子堂は、彼女の法名から、知願寺殿御霊屋とも呼ばれる。  千手院の門であった北門は典型的な江戸末期の形式を有する。  北門を出て、北に延びる奥の堂通りと左右の堀を望む。 鑁阿寺の次は足利学校へ向かう。

     鑁阿寺 地図の中央の矢印が鑁阿寺です      <栃木県足利市家富町にて>
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 日本最古の学校である足利学校のシンボルとして現代に継承されている学校門、               孔子が弟子たちに、中庸の教えを教授したときに使った宥座之器

 足利学校への散策も、大日大門通りの足利尊氏公像の前からスタートする。 大日大門通りを北に進むと、鑁阿寺の山門がある。  足利尊氏公像の前には、白壁が眩しい茂右衛門蔵がある。 通りの反対側には、綿布問屋の「たけや」がある。  大日大門通りは、「鑁阿寺・足利学校周辺の石畳の道」として栃木県の「道と川百選」に選ばれている。  相田みつをゆかりの蕎麦屋「めん割烹なか川」の前で左折して足利学校へ向かう。  東に歩を進めると、右手に、麦とろ「銀丸本店」がある。 店の正面に足利学校がある。  1549年にフランシスコ・ザビエルが「日本国中最も有名な坂東の大学」と世界に紹介した。   国指定史跡の「足利学校」は、日本最古の学校である。 足利学校は日本遺産に認定され、現在、世界遺産を目指している。
 足利学校に入る最初の門の入徳門がある。 入徳門は1909年に裏門を移転修築したもので、道徳心を習得する所に入るという意味である。  入徳門を入ると、正面に学校門が見える。 学校門は1668年に創建された。 学校門は足利学校のシンボルとして現代に継承されている。  学校門の手前左側には、孔子像や正一位霊験稲荷社があり、合格祈願の幟が立っている。  学校門を潜ると正面に杏壇門があり、左手に、孔子縁の階樹がある。 杏壇門は1668年の創建である。  杏壇門は1892年の火災で屋根門扉が焼け、再建されたものである。 杏壇門を潜ると、現在改装中でカバーで覆われている孔子廟がある。  孔子廟をちらりと見てから、足利学校の方丈に向かう。
 字降松の後に方丈が見える。 この松の枝に言葉を書いた紙を結んでおくと、翌日には「かな」が振られたという。  杏壇門の東に、南庭園と方丈がある。 南庭園は発掘調査の結果と江戸時代の絵図によって復源された。  南庭園は湧水を湛えた池と巨大な立石、其れに被さる松が特徴である。 方丈は学生の講義や学習、学校行事、接客のための座敷としても使用された。  方丈の前の池は 鶴が羽ばたくように見える。 ガイドの一声で、観光客が庫裡の前に集合する。 ツアーの後に付いてガイドの説明を小耳に挟む。  庫裡は学校の台所で、食事など日常生活が行われた所である。 庫裡の前には、復元された宥座之器がある。  孔子は「満ちて覆らないものはない」との、中庸の教えを弟子たちに教授した。  宥座之器は空の時は傾き、ほどほどで起きて来るが、水を一杯に入れるとひっくり返る。
 庫裡の前には、学生が勉強したり、生活したりした衆寮がある。 庫裡の北側には、書院があり、方丈の北側には北庭園がある。  北庭園から杏壇門の前を通り、1915年に建てられた遺蹟図書館へ。 遺蹟は廃校になった足利学校の書物を継承している。  図書館では、現在、「文晁・崋山・早雲と足利学校」を展示中である。 孔子廟の西、敷地の北西には、17基の石塔がある庠主の墓がある。  典籍などを格納しておくために、1967年に建てられた収蔵庫を最後に、足利学校の学校門を出る。  再び、入徳門の前の石畳の道に出る、右手に麦とろ銀丸本店がある。 石畳の通りを歩いて、鑁阿寺の駐車場に戻り、足利の街を離れる。  国道50号線から佐野藤岡インター経由で東北自動車道へ、羽生パーキングに寄る。  鬼平犯科帳とコラボレーションした「鬼平江戸処」を後にして帰路に就く。

   足利学校 地図の中央の矢印が足利学校です        <栃木県足利市昌平町にて>
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