北関東史跡訪問の旅の手始めとして、埼玉県行田市になる忍城へ。
忍城通りを北上すると、左手に、忍城の御三階櫓が見えて来る。
忍城通りから国道125号線に左折すると、左手に、郷土博物館の駐車場がある。
駐車場の東にある、漆喰塀に沿って、右手に進むと、進修館の表門であったと伝えられている門が見えて来た。
この「伝進修館表門」は行田市城西の旧芳川家表門を移築・復元したもので、
1832年に建立され、現存する行田市唯一の武家屋敷の表門である。
伝進修館表門の前で左折して、漆喰塀の間を通り御三階櫓に向かう。
前方左に、御三階櫓が見えて来た、左が行田市郷土博物館である。
御三階櫓は行田市郷土博物館と廊下で繋がっていて外から入ることは出来ない。
渡り廊下を潜って東に出ると、東門の前に、忍城の由来を書いた説明板がある。
忍城は、室町時代中期の文明年間に成田氏によって築城されたと伝えられている。
忍城は要害堅固な城であったことから、戦国時代には関東七名城の一つに数えられていた。
忍城は1590年の秀吉の小田原征伐時の攻城戦に耐え抜いた。
水攻めに耐え抜いた逸話から、忍ぶ城は「浮き城」又は「亀城」と称された。
江戸時代に入ると、忍城は徳川氏の譜代大名や親藩の居城となった。
忍城は、2017年に、続日本100名城に選定された。
忍城址は豊橋市の市公会堂と同様、陸王のロケ地になった。
東門を潜ると、掘りがあり、木橋が架かっている。 忍城通りに出る。
東門の左に、御三階櫓が見える。 御三階櫓は1988年に、行田市郷土博物館の一部として外観復興された。
御三階櫓を見ながら、忍城址の南側を通り、県道128号熊谷羽生線へ。 行田市郷土博物館へ向かう。
郷土博物館では、郷土の歴史と文化に拘わる資料を展示している。 郷土博物館参観後、御三階櫓へ。
御三階櫓の最上階は展望台になっていて、西を望むと郷土博物館の屋根が見える
北の方向には、遥か彼方に、リトミックゴルフクラブのネットが見える。
右に目を移すと、掘りに沿って、忍城通り、左後に市役所が見える。
東には、行田市産業文化会館、南には、中央小学校が見える。
更に右に目を移すと、忍中学校の右側に、博物館と御三階櫓の連絡通路が現れる。
御三階櫓の展望を最後に忍城を離れ、関越自動車道を走り、上里サービスエリアへ。
忍城址にある御三階櫓
地図の中央の矢印が御三階櫓です <埼玉県行田市本丸にて>
忍城址を、下記の「忍城址」のボタンをクリックして38枚のスライド写真でご覧ください。
関越自動車道を前橋インターで降りて、上毛野はにわの里公園にある八幡塚古墳へ向かう。
上毛野はにわの里公園の主役は、保渡田古墳群である。
保渡田古墳群は榛名山東南麓の井野川上流域にある、3基の前方後円墳、ニ子山古墳、八幡塚古墳、薬師塚古墳の総称である。
三つの古墳は、5世紀後半から6世紀初頭にかけて、二子山、八幡塚、薬師塚古墳の順で造られた。
八幡塚古墳は当時の形に復元されて、石と埴輪で飾られ、遠くからでも白く浮きたっている。
古墳に使われた葺石の数は、三十九万八千個と推定されている。
古墳の西側に北に向かって、出土した円筒埴輪が二列に並んでいる。
八幡塚古墳は墳丘の全長が96m、墳丘推定高が8mである。 盛土の量は、一万四千五百立方米である。
円筒埴輪の数は推定で6000本である。 古墳の埋葬施設としては、船形石棺や竪穴式石槨がある。
前方部東側から、古墳の上に登る。 前方部から後円墳を望む。 古墳の西側に北に向かって、出土した円筒埴輪が二列に並んでいる。
円筒埴輪は、古墳を悪霊から守る垣根だと考えられる。 後円墳の頂きに登り、前方部を望む。 右前方にかみつけ博物館が見える。
上毛野はにわの里公園の北側には、新潟県との県境を形成する連山が連なっている。
西側には、榛名山の山々が連なり、右前方に、薬師塚古墳の痕跡がある。
古墳の周りには、中島と呼ばれる円い島が4つ造られている。 最後の四つ目の中島の背後に見える山々は、赤城山だろうか。
古墳被葬者に対する葬送儀礼を行った場所である。 墳丘東側くびれ部の中島から高杯の土師器が出土している。
高杯は初期須恵器高杯を模造したもので、古墳時代後期の初期と推測されている。
後円墳の頂きから、周りを眺めながらボランティアガイドの説明を聞く。 後円墳には、地下に降りる階段がある。
石段を降りて、古墳の中に入る。 八幡塚古墳の出土品には、碧玉製管玉、ガラス製勾玉などがある。
先ず、目に付くのは、豪族が眠っていた、巨大な船形石棺である。 副葬品は鉄地金銅張F字形鏡板の轡と同剣菱形杏葉が出土した。
小石槨からは、鉄刀片と甲冑片が出土したとの伝承がある。
八幡塚古墳
地図の中央の矢印が八幡塚古墳です <群馬県高崎市保渡田町にて>
八幡塚古墳を、下記の「八幡塚古墳」のボタンをクリックして32枚のスライド写真でご覧ください。
前方部前面の中堤上に、円筒埴輪列で方形に区画された部分がある。
区画部分からは、人物類や狩猟鳥獣をモチーフとした形象埴輪が出土している。
動物埴輪は埴輪祭祀の一つの表現形式として注目されている。
東端に、鳥を腕に据える男子。 前列には、水鳥が並んでいる。 弓を持った人の右に、猪、犬、最後列に飾り馬がある。
左に目を移すと、前列は水鳥と鶏、中央は魚をくわえる鵜である。 古墳時代から儀礼・行事としての鵜飼が行われていたらしい。
器台に乗った壺の後の3人は、椅子に座る2人の男子に、椅子に座り杯を捧げる女子である。
右は琴を弾く男子、左の5人は、3人の男子に、杯を捧げる女子と琴を弾く男子である。
右端は壺を捧げる人物と力士らしき双脚立像の男子、右前に、武人らしき双脚立像の男子、その左が力士らしき男子がある。
北西から望む。 内堤の上に、円筒埴輪による区画を設け、54体ほどの形象埴輪が置かれていた。
西側から望む。 左端が武人らしき男子、右が力士の双脚立像、中央右が武人、右が盛装男子、後が武装男子、
左の向き合っているのが、倭風大刀を帯びる男子と掛衣の女子、中央左が盛装男子、その後が武装男子、その後に甲冑形埴輪が二つ並ぶ。
甲冑形埴輪の後に、掛衣の女子、右に、飾り馬が五頭並んでいる。
前列に飾り馬、後列に水鳥が並び、その間に魚をくわえる鵜が見える。
最初の東端の埴輪群、飾り馬の最後に鹿らしき埴輪、後に犬と猪、右端に鳥を腕に据える男子がある。
テレビでお馴染の埴輪群を見た後は、かみつけの里博物館へ。
博物館では、保渡田古墳群がつくられた頃の世界を楽しみながら学習できる。
左端が武人、右がひざまずく人と琴を弾く人、後が巫女、左、飾りを付けた馬、中央、巫女と壺を掲げる人、右、武人が並ぶ。
甲冑に身を固め、武具を帯びた武人の埴輪、威儀をただす王の男性埴輪、華麗なタスキや掛布を身にまとった巫女がある。
人物埴輪は儀礼の様子を表しているのに対し、家・器材埴輪は王の眠る場所を示し権威づけをした。
博物館の拝観を終え、公園の一画にある土屋文明文学館に向かう。 文学館では、現在、新美南吉の「ごんきつね」の特別展を開催中であった。
前庭を散策して、高崎市出身の山村暮鳥の歌碑を見つける。 上毛野里での今日の日程を終え、今夜の宿のルートイン渋川に向かう。
かみつけの里博物館
地図の中央の矢印がかみつけの里博物館です <群馬県高崎市井出町にて>
八幡塚古墳出土の埴輪などを、下記の「かみつけの里博物館」のボタンをクリックして29枚のスライド写真でご覧ください。