塩釜神社と多賀城祉     2019年5月25日



 左、重要文化財に指定されている塩釜神社の随神門である二階楼門           右、背後に左宮・右宮の二つの本殿がある塩釜神社の本宮の拝殿

 JR仙台駅にて、仙石線のプラットホームへ、小鶴新田駅は目的地の手前なので東塩釜行きの乗車になる。  小鶴新田行きの車両が到着する。 近郊の通勤電車用なのか、逆コースの朝の車内は無人である。  東塩釜行きが到着、ドアの横にボタンがあり、扉の開閉は手動である。 本塩釜駅で下車し、タクシーに乗車して塩釜神社に向かう。  塩釜街道を西に走って、宮城交通の西町バス停がある塩釜神社に到着する。  正面に表坂の石鳥居が見える。 表参道の石段を登ると、標高50mの尾根の上に塩釜神社の社殿がある。  千賀の浦を望む一森山に位置し、東北地方全体の守り神である。  塩釜神社は全国にある塩釜神社の総本社で、東北鎮護・陸奥国一宮、神紋は塩釜桜である。  塩釜神社の創建年代は不詳であるが、嵯峨天皇の御代の「弘仁式」に記録がある。
 表参道の石段を登ると、更に石段が現れ、その上に楼門がある。 楼門の前の広場に出る。 此処は馬場として使われた所である。   楼門は塩釜神社の随神門で、重要文化財に指定されている。 随神門は二階楼門で三間一戸、朱塗りのハ脚門である。  随神門から前方を望むと、左手に手水舎、前方に唐門がある。 手水舎の後にある老杉は塩釜神社の御神木で、樹齢600年、樹高31mである。  随神門を潜って前に進むと中門の唐門がある。 唐門は四脚門で切妻造り、銅板葺で彩色が施してある。  唐門の両側には狛犬が並んでいる、塩釜神社で所々で狛犬が見られる。 唐門を潜ると正面に本宮の拝殿が見える、右手には別殿がある。  拝殿は桁行7間・梁間4間で入母屋造銅板葺で、背後には左宮・右宮の二つの本殿がある。
 塩釜神社の境内にある、多羅葉樹は樹齢六、七百年で、北限地帯に見られる老大木として貴重な存在である。  境内には、1187年に藤原忠衡が奉納した文治燈籠や1809年に伊達周宗が寄進した銅鉄合製の文化燈籠がある。  寛政の三奇士の一人林子平が造ったと考えられている、日時計の複製もある。 別宮にも参拝する。  塩釜神社の塩釜ザクラはサトザクラ系の八重桜で、井原西鶴の小説や近松門左衛門の戯曲にも登場している。  塩釜の礎を築いた恩人である、伊達綱村公の顕彰碑もある。 参拝を終え、唐門を出て左折すると、右手に舞殿がある。  別宮と舞殿の間を東に進むと、東神門に来る。 東神門から出て、左に行くと馬場があり随神門の前に出る。 右に行くと志波神社がある。  東神門から東には、裏参道が延びている。

     塩釜神社 地図の中央の矢印が塩釜神社です      <宮城県塩竈市一森山1にて>
塩釜神社を、 下記の「塩釜神社」のボタンをクリックして44枚のスライド写真でご覧ください。  室町時代の建物と言われ、塩釜神社では最も古い建築物である「御文庫(旧鐘楼)」

     

左、1938年に完成された志波彦神社の拝殿                              右、塩釜の地名の由来とされる釜が境内に安置されている塩釜神社

 塩釜神社の東北に、陸奥国百社の名神大社である志波神社がある。  元々は岩切村の冠川の辺に鎮座していた。 志波彦神社の守礼門の前に来る。  守礼門を潜ると正面に拝殿が見える。 現在の社殿は1938年に完成されたものである。  拝殿は桁行5間、梁間3間で、内部は石敷、左右と背面には高欄付きの廻縁を持っている。  志波彦神社の拝殿は屋根は入母屋造り、銅板葺である。  比較的装飾を押さえた塩釜神社に比べ、朱黒の極彩色漆塗りである。 境内には、神符守札所がある。
 志波彦神社を出ると、東に、塩釜神社の社務所がある  室町時代の建物と言われ、塩釜神社では最も古い建築物である御文庫もある。  社務所から南に歩くと、左側に庭園が広がり、その先に海が見える。  塩釜湾を望むと、マンションのグラン・ドムール塩釜が見える。  左手に庭園を見ながら、坂を下ると赤い鳥居があり、塩釜神社博物館の前の広場に出る。  裏参道から、この鳥居を潜るのが志波彦神社の参道らしい。 鳥居から南に歩くと、裏参道に面して、神龍社がある。  東神門に続く裏参道にある二の鳥居に出る。 右側に神龍社、左側に七曲坂の入口がある。  七曲坂は塩釜神社参道の中で最も古く、奈良時代頃に出来たと推測されている。
 七曲坂を下り塩釜街道に出る。 東に向かって歩き、東参道の入り口に来る。  右折して、ボランティアガイドに勧められた御釜神社へ向かう。  塩釜街道から路地に入って、本町通りに面した御釜神社へ来る。  御釜神社は塩釜神社の末社で、塩釜の地名の由来とされる釜が境内に安置されている。  神代に、塩土老翁神が釜で海水を煮て製塩する方法を人に教えたと伝わる。  多賀城創建の頃、御釜神社では釜を使って塩作りが行われていたという。  境内には、牛石と鞭藤の奇瑞を記念して建てられた牛石藤鞭や藻塩焼神事が行われる神釜がある。
 御釜神社から本町通りを駅に向って歩くと、左手に、塩釜神社の御神酒酒屋で、1724年創業の浦霞醸造元「佐浦」がある。  本町通りから左折して塩釜市海岸通り交差点に出て、国道45号線を東を望むと、仙石線の高架が見える。  高架線を潜らず、左手の道を進み、石灯篭のある駅前に到着する。  本塩釜駅の駅前には、今年の猪の絵馬と干支のストーンアートが置かれている。  本塩釜駅から多賀城駅まで乗車し、次の目的地である多賀城跡へ向かう。

   御釜神社 地図の中央の矢印が御釜神社です        <宮城県塩竈市本町6にて>
志波神社と御釜神社を、 下記の「志波神社と御釜神社」のボタンをクリックして37枚のスライド写真でご覧ください。



 左、古代東北地方の行政・経済・軍事の中心地であった多賀城政庁の正殿跡                    右、724に創建され江戸時代に発見された多賀城碑

 
 仙石線の多賀城駅からタクシーに乗り多賀城跡へ向かう。  タクシーを降りると、東北本線の前に、砂押川に架かる赤い欄干の新市川橋が見える。  多賀城の立地は松島方面から南北にのびる低丘陵の先端に位置し、仙台平野を一望できる。  多賀城碑の北にある城前地区に到着する。 坂道を北に登ると政庁跡がある。  多賀城は720年の蝦夷の反乱を契機に、724年に造られた陸奥国府である。  多賀城は737年に多賀柵として初めて続日本紀に登場した。  780年以後は多賀城として資料に記録されている。
 多賀城は政庁から外郭南門の南まで、南北に直線的な大路が貫かれていた。  畿内の城郭と異なり、小高い丘に造られた多賀城の政庁への道は上り坂であった。  坂道を登り政庁跡の前に立つ、多賀城の中央に置かれた政庁は約100m四方の築地で囲まれていた。  政庁は東西103m、南北116mの長方形の築地が巡らされていた。  外郭の築地塀には、八脚門の東門と西門が確認されている。  多賀城には外郭南門と政庁の南門と二つの門があり、この門は正殿の南に立つ南門の跡である。
 南側の築地には、二重門の南門があり、両側には東翼楼と西翼楼があった。  多賀城は左右に脇殿があり、その北に東楼と西楼、その横に東門と西門があった。  南門の北には石敷広場が広がり、その北に正殿があった  後殿の北には政庁を囲む築地があり、その中央に北殿があった  城内には多数の実務的な役所、木工や鍛冶などの工房も配置された  城内では都から、按察使(アゼチ)、国司、鎮守府官人など20人前後の役人が赴任してきた  役人のほか、書生などの下級役人・兵士など1200人を終える人が働いていた  多賀城には軍事を担当する鎮守府も置かれ、蝦夷対策を進める拠点であった。  多賀城は出羽国まで監督下におく古代東北地方の行政・経済・軍事の中心地であった。  政庁の参観を終え、南北大路の南にある南門地区に来る、石段を登ると外枠南門跡がある  外郭南門から政庁正面までは直線道路が延びていた。
 外郭南門北東に、「大野東人によって724に創建された」と刻まれた、江戸時代に発見された多賀城碑がある。  多賀城碑は歌枕にある壺碑と見なされ、芭蕉など多くの文人訪れた。  壺碑を最後に、多賀城跡の探索を終え、東北歴史博物館の前を通り駅へ。  多賀城跡では、ボランティアガイドさんが私一人のために、昼食を挟んで、1時間余りガイドをして頂いた。  国府多賀城駅から北を望む。 東北歴史博物館を初め、芭蕉の足跡など未だ見残した遺跡が多数あった。  40数年前に仕事で、教科書で学んだ多賀城の近く来たが未訪に終わったが、 今回の旅で、長年の想いを人生の最終段階で達成できた。  国府多賀城駅から乗車、3時半出発予約済みの新幹線に乗るために仙台駅へ向かう。  仙台駅エスパル地下にある、明治創業のそば処「丸松」で軽食をとってから新幹線乗り場へ。

     多賀城碑 地図の中央の矢印が多賀城碑です      <宮城県多賀城市市川字田屋場にて>
      多賀城祉を、 下記の「多賀城祉」のボタンをクリックして41枚のスライド写真でご覧ください。

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