市川市の貝塚     2018年10月18日


 市立市川歴史博物館と市川出土の縄文土器の深鉢

 
 掘之内貝塚を尋ねて、東松戸駅にて、武蔵野線から、北総線に乗換える。  北総鉄道北国分駅にて下車し、南側に出て左折すると、交差点がある。  交差点を左折し、広い通りを南下すると、突然、丘の上に出て、右手の高台に市川考古博物館の建物が見える。  博物館は、堀之内貝塚の東側に建っている。 高台の北側を西に向かうと、堀之内貝塚公園の入口がある。  入口から南に向かい、右手に市立市川歴史博物館を見ながら進むと、芝生広場に至る。  芝生広場の東側に、先程見えた考古博物館があり、西側に、堀之内貝塚が広がる。  堀之内貝塚の南端に行くと、段丘の下に平野が広がり、縄文人遺跡特有の地形が見える。
 堀之内貝塚は縄文時代後期から晩期の貝塚で、堀之内式の標式遺跡として知られる。  貝塚は、標高22m程の尾根状の台地及びその斜面に形成されている。  1967年には、貝塚全体が国の史跡に指定され、1972年には考古博物館が開館した。  博物館では、先土器時代から平安時代前半までの遺跡を展示している。  市川出土の縄文土器が展示されている。 土器の主な用途は煮炊きであった。  縄文時代前期、約五千六百年前の「浅鉢」、縄文時代中期、約四千五百年前の「器台」、 縄文時代後期、約三千八百年前の「注口」、縄文時代後期、約三千五百年前の「壺」、 縄文時代中期、約四千五百年前の「深鉢」で食べ物を煮炊きする土器などの展示品を見る。
 約4千年前の海岸線は、古市川湾が内陸深く入り込んでいて、堀之内貝塚や古作貝塚も海岸に近かった。  約13万年から12年前の時代に堆積した、天然記念物の木下貝層のパネルがあり、 木下貝層では、浅い海に生息する貝類の化石が沢山産出した。  約六千五百年から五千五百年前に、館山湾にて形成されたサンゴを含んだ「沼サンゴ層」も見られた。  考古博物館では、縄文時代に現れた「組紐」を解説した「組紐小史」のコーナーもある。  石器の種類の展示コーナーでは、原石や石核から砕片を経て、槍先形尖頭器やナイフ形石器が造られる過程が分かる。  縄文土器は、約1万年の間に、主流の深鉢形の他に、様々な器種が現れた。
 文様装飾も多彩に変化するが、同じ文様の土器を使い仲間意識を表したと考えられている。  市川市の安楽寺貝塚は、姥山貝塚の貝処理作業(干貝生産)の場であった。  市川市での代表的な貝塚の姥山貝塚と堀之内貝塚が紹介されていた。  市川考古博物館の参観を終え、次は市川歴史博物館に向かう。  歴史博物館では、平安時代後半から現代までの資料を展示している。  市立市川歴史博物館を最後に堀之内貝塚公園を出て北国分駅に向かう。 

     堀之内貝塚 地図の中央の矢印が堀之内貝塚です      <千葉県市川市堀之内2丁目15にて>
堀之内貝塚を、下記の「堀之内貝塚」の
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     縄文時代早期の美濃輪台遺跡と姥山貝塚

 木下街道の北にある市川市立若宮小学校の北に、美濃輪台遺跡がある。  地形が農具の箕に似ている所から、低地の部分を「ミノワ」、台地の部分を「ミノワ台」と呼んでいる。  台地には縄文時代早期の遺跡が形成されている。  台地を北側の低地部分から望む、右に美濃輪台遺跡B地点、左に美濃輪台遺跡A地点がある。  AB両地点共に、1966年に明治大学の調査班が発掘した、この時期の特徴的な炉穴がある。
   A地点で採集された遺物のサンプルによるC14年代測定で、7250±110年前との結果が出ている。  台地の北側低地には、美箕輪湧水があり、流水の水路が整備され、公園になっている。  湧水の隣には彫刻群が立っている。  この辺りは、戦後の工業化・都市化につれて宅地の需要がにわかに増大し、 1972年に美濃輪土地区画整理組合を結成され、噴水公園の設置や緑地の保存などを推進された。  美濃輪台遺跡を見学した後、もう一つの縄文遺跡である「姥山貝塚」に向かう。
 木下街道の北、法典の湯の近くに、姥山貝塚公園の南側の入口がある。  姥山貝塚は1967年に、特別史跡名勝天然記念物に指定された。  姥山貝塚は下総台地の西端、大柏谷の向根支谷の北側に位置し、標高23mから25mである。  貝塚は中央部が窪み、南を除く周囲が土手状に高まった地形をしている。  貝層は土手状の高まりにあり、C字形をしているので、馬蹄型貝塚と呼ばれている。  姥山貝塚の貝層の規模は、外径が東西130m、南北120mである。
   1949年に発掘された、貝塚のE地点では、個体骨格を残す人骨10体が発見された。  貝塚のD地点からは、後期中葉の加曾利B式土器と後期前葉の堀内式土器が出土した。  M1地点からは、1962年に、後期中葉の加曾利B2式土器と竪穴住居の床が発見された。  M2地点からは、1962年に縄文時代後期中葉の加曾利B式土器が出土した。  貝の種類としては、蛤が主体で、他に浅蜊、サルボウ、シオフキ、ハイガイ、マガキなど30種類以上が採集された。  B地点では、1926年に来日したスウェーデン皇太子が見学及び発掘をされた。  1926年に掘られた接続溝からは、竪穴住居跡1軒が発見された。
   S1地点からは、1928年から29年にかけて発掘が行われ、中期後葉の加曾利E1式土器と石鏃が出土した。  A地点での、1926年の発掘により、縄文時代の住居は炉や柱を有する竪穴住居と証明された。  W地点からは、1938年に縄文時代中-後期の住居が4軒発見された。  C地点で1940年に発掘された鍔付有孔土器から、中部山岳地方の文化の影響が見られた。  M地点では、1962年に、ローム層を掘りこんだ竪穴住居跡が6軒発見された。  S2地点では、貝層中から後期中葉の加曾利BV式土器や打製石斧が出土した。  姥山貝塚公園を一回りしたので、遺跡探索は終了する。

   美濃輪台遺跡 地図の中央の矢印が美濃輪台遺跡です      <千葉県市川市若宮3丁目56にて>
   姥山貝塚 地図の中央の矢印が姥山貝塚です        <千葉県市川市柏井町1丁目にて>
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