芭蕉の里の黒羽     2018年5月16日


 萱葺き屋根の門と回廊共に重文である大雄寺の総門

 
 那須高原の躑躅を尋ねた後、大田原市のビジネスホテル「アジサイ」に宿泊する。  ホテル「アジサイ」は東北自動車道の西那須野インターに近く、今日の目的地の黒羽にも近い。  ビジネスホテルにも拘らず、部屋も朝食も合格ラインで、コストパフォーマンスも良い。  ホテルから、「芭蕉の里 くろばね」の石柱が建つ大田原市黒羽庁舎へ。  黒羽は奥の細道で、芭蕉が最も長く滞在した地として知られていて、是非、訪れたいと思っていた。  黒羽は最近、吉永小百合が紹介する、JR東日本の「大人の休日倶楽部」で取り上げられた。  黒羽庁舎を覗き、職員から、黒羽のパンフレットを頂き説明して貰う。  黒羽庁舎を出て、右に進み、交差点で更に右折すると大雄寺に至る。  丘の上に続く道を上ると、眼下に黒羽庁舎の駐車場が見える。
 芭蕉が歩いた道に出ると、羽黒小学校の前に、武家屋敷の門である「侍門」がある。  この侍門は黒羽藩主大関家の重臣大沼家の侍門であった。  芭蕉が歩いたと云われている、黒羽小学校の西側の道を北に進む。  現在でもこの辺りの道は、芭蕉が訪れた当時の面影を深く残している。  この道は「芭蕉の里大宿街道」として、道と川百選に選ばれている。  大宿街道を北に進むと、左手に、大雄寺、芭蕉公園、旧浄法寺邸など芭蕉縁の地がある
。  600年以上の歴史を持つ曹洞宗の禅寺「黒羽山大雄寺」の前に来る。  参道脇のラカンの丘には、石仏十六羅漢像が奉安されている。  長い石段を登ると、両脇に仁王像が立ち、やがて山門の前に出る。  大雄寺は1404年に余瀬白旗城内に創建されたのが始まりである。  山門を潜り石段を登ると左手に、写経・一石一字経の納経所である。 石仏合掌観音像も立っている。  総門が本堂の正面に建っている。 門は、左右に、回廊が取り付けられている。  萱葺き屋根の門と回廊共に重文である。
 大雄寺の本堂に参拝する。 本尊は釈迦如来座像である。  大雄寺は1448年に、黒羽藩主第10代大関忠増により再建された。  現在の大雄寺は1448年再建の伽藍で、現在まで保存されている。  大雄寺は室町期の様式を今に伝える総茅葺屋根の禅寺である  大雄寺の禅堂は、宝冠釈迦座像を聖僧とし、上間、下間の単を有し、本格的な禅道場である。  国重要文化財指定の萱葺き屋根の鐘楼堂では、大晦日には除夜の鐘が鳴らされる。  同じく重文の大雄寺の経堂は、一切経4500巻を輪蔵内に納める土蔵造りの建物である。  大雄寺の参拝を終え総門を出る。 大雄寺には「枕返しの幽霊」伝説と掛け軸がある。  境内一面に咲き誇っているシャガを見ながら芭蕉の道に戻る。
 大雄寺を出て直ぐ左手には、白旗不動尊がある。  黒羽に於ける芭蕉の道とは、大雄寺の参道付近から浄法寺雪桃邸跡を経て芭蕉の広場に続く約800mの遊歩道である。  元禄2年(1689年)5月22日に芭蕉は浄法寺桃雪邸に招かれた。  芭蕉は奥の細道の旅で、最も長い滞在の13泊も、黒羽に逗留した。  桃雪邸には、8泊もして、「山も庭にうごきいるるや夏座敷」の句を残した。  6月2日も宿泊し、私共が、2016年8月31日に訪れた那須の殺生石に翌日向かった。

     大雄寺 地図の中央の矢印が大雄寺です      <栃木県大田原市黒羽田町にて>
大雄寺周辺の風景を、下記の「大雄寺」のボタンをクリックして41枚のスライド写真でご覧ください。


     JR大人の休日倶楽部「黒羽の芭蕉編」でロケ地になった竹林

 浄法寺桃雪邸から丘を下って、史蹟黒羽城の黒門跡へ。  黒門跡には、「田や麦や 中にも夏の ほととぎす」の句碑がある。  黒門跡から史蹟黒羽城の土塁水掘跡を通って「黒羽芭蕉の館」に向かう。  大田原市黒羽芭蕉の館は、郷土の歴史、文学、人文に関する資料の収集及び整理保存、公開を行っている。  芭蕉の館は、黒羽城三の丸跡に建っていて、館内は撮影禁止である。  館内の庭には、芭蕉が馬に跨り曽良を従えているブロンズ像がある。  館内には説明員も見当たらず、展示資料も奥の道全体の内容が主で物足りなかった。  建物の下を潜って北に向かい、石段を上って本丸跡へ。  本丸跡に向かうには、深くて大きな空濠があり、あじさい橋が架かっている。 黒羽城の本丸跡に至る。  黒羽城址公園及びその周辺地区は紫陽花の名所になっていて、今年も6月16日から紫陽花まつりが開催される。  黒羽城は1576年に大関高増が白旗城から遷したのが始まりである。  本丸跡の北側には能舞台がある。 1590年の小田原征伐の際、主家の那須氏は参陣せず改易されたが、 小田原征伐の際、大関氏の高増は、弟の息子大田原晴清と共に参陣し、秀吉より所領を安堵された。  関ヶ原の戦いでは、大関氏は東軍に与したので、家康に加増され大名になった。  黒羽城では、江戸時代を通じ、関東では珍しく外様大名の大関氏の支配が幕末まで続いた。  黒羽城本丸跡は、我々以外は観光客の姿も無く、静かな公園である。  本丸跡の西側には、新しく建てられた物見櫓が見える。  物見櫓に昇って見る。 黒羽城は西に那珂川、東に松葉川が流れる丘陵の上にある。  物見櫓に昇って西を望む。 崖の下に那珂川が流れている。  黒羽城は、本丸、中の丸、北の丸からなる内城を三の丸が囲むように配置されている。  黒羽城址で古を偲んだ後、再び、あじさい橋を渡って馬出廓へ。  馬出廓にある東屋の付近は、紫陽花まつりの中心だろう。  芭蕉の道を芭蕉の館から芭蕉の広場へと向かう。 途中に芭蕉と曽良の句碑がある。  芭蕉の広場から芭蕉公園に向かう芭蕉の道で、芭蕉の広場から坂を降りる辺りは竹藪で覆われている。  竹藪の中の道に人の姿は無いが、脇の表示板に「JR大人の休日倶楽部「黒羽の芭蕉編」ロケ地」とある。   吉永小百合のJR東日本のコマーシャルに出てくる竹林がこの場所で撮影された。  竹林を出ると、芭蕉の道は、茶房「城山」の前に出る。  再び、大田原市黒羽庁舎が見える丘に出る。  駐車場に戻り、JR大人の休日倶楽部「黒羽の芭蕉編」で一躍名所になった「雲厳寺」に向かう。

   芭蕉の道の竹林 地図の中央の矢印が竹林です      <栃木県大田原市前田にて>
芭蕉の道と黒羽城を、下記の「芭蕉の道と黒羽城」の
ボタンをクリックして34枚のスライド写真でご覧ください。


 JR大人の休日倶楽部のロケ地になった雲巌寺の爪鉄橋

 国道461号線を東に走り、JR大人の休日倶楽部のコマーシャルで話題になった雲厳寺に到着。  雲厳寺の境内に入ると、山門の正面に朱塗りの反り橋がある。  赤い橋の上で、ピンクの傘をさして立つ女性の姿がある。 吉永小百合の再現である。  ロケ地探訪に来た女性グループに共感し、想い出にと写真を撮って貰う。  胸の前には、吉永小百合のセリフ「大人になったらしたいこと」「大人の休日倶楽部」を掲げている。  コマーシャルでは、芭蕉の道の竹林に続いて、雲厳寺のこの爪鉄橋が出て来る。  武茂川に架かる爪鉄橋を渡って、石段の上にある山門を目指す。  この春は、JR東日本のデステネーションキャンペーンで雲厳寺が話題になっている。  臨済宗妙心寺派の名刹「雲巌寺」は八溝山地の懐深く、清らかな渓流に沿う境地にある。   雲巌寺は1283年に、北条時宗を大檀那として仏国国師が開山した。  江戸時代前期に再建された、二層楼門入母屋造りの雲巌寺の山門を潜ると、 正面に、1922年に再建された仏殿がある。  仏殿の後に方丈があり、山門と共に一直線に並んでいる。  雲巌寺は永平寺などと並んで、日本四大禅道場の一つである。  寺は禅修行のための道場で、拝観はできるが堂内は立ち入り禁止である。  観光寺院でも無く、交通の便も悪いので、今までは訪れる人が少なかった。  先の黄金週間では、吉永小百合のコマーシャルに釣られて人々がどっと訪れた。  観光寺院でもない雲巌寺周辺には、車で近づくことも出来なかったと云う。  雲巌寺の一番奥にある建物の獅子王殿(方丈)は雲巌寺の方丈である。  松尾芭蕉は、1689年に雲巌寺を訪れている。  芭蕉は仏頂国師を偲び「句」を残している。 芭蕉の句は「啄木鳥も 庵は破らず 夏木立」である。  再び、山門に戻る。 吉永小百合の「大人の休日倶楽部」の場面を思い出しながら石段を降りる。  雲厳寺の朱塗りの爪鉄橋を最後に雲厳寺を離れる。

       雲巌寺の爪鉄橋 地図の中央の矢印が爪鉄橋です      <栃木県大田原市雲岩寺にて>
雲巌寺を、下記の「雲巌寺」のボタンをクリックして36枚のスライド写真でご覧ください。


     道の駅「那須与一の郷」に立つ、那須与一の騎馬像

 雲巌寺を出て、国道461号黒羽街道を西に走る途中で、 右手に、道の駅「那須与一の郷」がある。  道の駅の入口では与一の騎馬像が出迎えてくれる。 道の駅の各施設の屋根は扇型になっている。  道の駅の北側には、那須与一縁の那須神社がある。  仁徳天皇時代の創立で、更に、坂上田村麻呂が応神天皇を祀って八幡宮にしたと伝えられている。  芭蕉が黒羽滞在時に訪れたと云われ、「奥の細道の風景地」に指定されている。
 長い参道を進むと、1642年に大関高増により建立された楼門がある。  大関高増は黒羽藩3代藩主で現在の社殿は彼の整備による。  1577年に大関氏によって本殿、拝殿、楼門が再興されたと社記は伝えている。  創建時は仁王像が並んでいたが、現在は、随神が置かれている。  1641年に建立された、那須神社の拝殿と楼門は、国の重要文化財に指定されている。  那須神社に参拝。 社宝には那須与一が奉納した「太刀銘弘綱」が伝来している。
 那須与一は屋島での戦功により那須の総領になっている。  神社では、秋の例大祭では流鏑馬が行われている。  神社境内には、樹齢200年の那須神社の桧である、「与一の里おおたわら名木」がある。  「手水舟」は1642年に大関高増が那須神社に奉納した、重要文化財である。  本殿の北側にある仁徳天皇時代に築かれたと云われている「金丸塚」を最後に 那須神社の参拝を終え、帰路に就く。

   那須神社 地図の中央の矢印が那須神社です      <栃木県大田原市南金丸にて>
 那須神社を、下記の「那須神社」の
ボタンをクリックして19枚のスライド写真でご覧ください。

次ページへ

最近のウォーキングより