城ヶ島      2017年5月30日


    日本に於ける五番目の西洋式灯台として、初点灯を迎えた城ヶ島灯台

 城ヶ島京急ホテルで、三浦半島での朝を迎える。  ホテルの部屋から眺める長津呂の海は、朝日を浴びて一段と鮮やかだ。  灘ヶ崎の前の磯では、釣り人の姿も見える。 長津呂崎から相模湾を望むと、海上には多数の漁船が見える。  南に目を移す、長津呂崎はホテルの前から南西に延びている。 南には、太平洋が何処までも広がっている。  長津呂崎越しに眺める朝食時の景色は、夕食時と違い日の光が溢れている。 昨晩見えた富士山を探すも朝靄の中に隠れている。
 朝食後、ホテルの周りの散策に出かける。 ホテルの前は絶好の釣り場でもある。  磯に渡る観光橋に向かう。 磯の先端には多くの釣り人の姿が見える。  観光橋から城ヶ島京急ホテルの宿泊した最上階の部屋が見える。  城ヶ島は周囲長約4kmで、神奈川県最大の自然島である。  海を跨いだ観光橋を渡って、対岸の磯へ。ホテルは崖の上の狭い所に建っている。 崖には海蝕洞窟があり、祠が見える。  城ヶ島は北原白秋の「城ヶ島の雨」が評判を呼ぶと、ロマンの島として全国に名を知られるようになった。  島名の由来は、戦国時代に房総の里見義弘がこの島に砦を築いた頃に「城ヶ島」と呼ぶようになった説が有力である。  城ヶ島は島の東西で地質が異なり、「日本の地質百選」にも選ばれている。
 長津呂崎の磯を散策した後、ホテルの背後の丘の上にある城ヶ島灯台に向かう。  商店街になっている城ヶ島灯台通りの中央西側にある登り口から、城ヶ島灯台がある丘の上に登る。  急な階段を登ると、西洋庭園風な庭にある蓮池に出る。 城ヶ島には江戸時代より烽火台が設置され、灯台としての役割を果たしていた。  蓮池の前には西欧風の石段があり、その向こうに灯台が見える。 石段を登ると右下が蓮池が見え、左前に展望台がある。  石段を登って右手に、1992年に設置された「海への祈り像」がある。
 海への祈り像を右に見ながら先に進むと、城ヶ島灯台が近づいてくる。  城ヶ島の灯台は1648年に、三崎奉行安部次郎兵衛が、島東端の安房崎に烽火台を設置したのが起源とされている。  1678年には烽火台は幕府の命によって島東端から西端の西山に移設され、 1870年に、日本に於ける五番目の西洋式灯台として、初点灯を迎えた。  灯台の光の強さは31万カンデラ、光が届く距離は16海里である。  灯火の光り方は、15秒毎に白光を1閃光(単閃白光)である。 灯台を十分観察して南の磯に向かう。

     城ヶ崎灯台 地図の中央の矢印が城ヶ崎灯台です      <神奈川県三浦市三崎町城ケ島にて>
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 赤羽根崎の突端にある、崩落の可能性がある馬ノ背洞門

 長津呂崎から、城ヶ島の南岸へ。 海岸の磯を赤羽根崎まで歩くことにする。  赤羽根崎まで行くには、河岸段丘の上の遊歩道と海岸の磯を歩く2つのコースがある。  城ヶ島は全体が高さ30mほどの台地で覆われていて、南岸部は河岸段丘が続く。  城ヶ島は東西幅約1.8km、南北幅約0.6kmの東西に長い島である。  城ヶ島は菱形の形状をしていて、東西南北にそれぞれの岬がある。  東は安房崎、西は長津呂崎、南は赤羽根崎、北は遊崎があり、赤羽根崎には「馬ノ背洞門」がある。  東の安房崎には安房埼灯台、西の長津呂崎には城ヶ島灯台がある。  赤羽根崎より西側は砂浜と広大な岩礁地帯があり、典型的な海岸段丘を形成している。   海風が強いため、南岸の崖には樹木が殆ど生えておらず、島の台地上の樹木は北側に傾いて生える。  城ヶ島は関東地震に伴う地盤隆起によって砂中の岩礁が砂浜に露出してしまい海水浴客は減少した。
 前方に赤羽根崎が見えてきた。 丸い穴が「馬ノ背洞門」である。  馬ノ背洞門は侵食により岩がメガネ状に繰り抜かれたアーチ状の岩で、所謂、海食洞門である。  馬ノ背洞門は、赤羽根崎の突端にあり、1923年以前は洞門下を小船で通航できた。  関東地震による隆起で、馬ノ背洞門辺りが陸化したため、船で穴を通過する事はできない。  このような洞門は通常海の中にある場合が多いが、城ヶ島の馬の脊洞門は門の真下まで近づける。  馬ノ背洞門は、関東地震による隆起現象を今に伝える貴重な存在である。  洞門の上部は、幅が狭い上に既に亀裂が入っており、崩落の可能性があるため歩くことは禁止されている。  洞門の門の間から、安房崎の先端が見える。 赤羽根崎より東側は険しい海食崖が発達している。  赤羽根崎より東側の沿岸部に平坦な場所が殆どない地形である。 赤羽根崎から東への散歩道は危険を感ずるので、ここで引き返す。
   赤羽根崎から河岸段丘の上に登る遊歩道があるので、帰りは丘の上へ。 階段を登ると、馬ノ背の洞門の上に出る。  洞門の前には、岩がもろく危険のため洞門には登らないでくださいとの注意書きがある。  洞門の上から城ヶ島の南岸を望む。 磯が続き砂浜はない。 典型的な河岸段丘が赤羽根崎から長津呂崎まで続いている。  河岸段丘の上に登り、太平洋を望みながら 城ヶ島灯台に向かって歩く。  南岸は普段は静かなため、夏場にはキャンプをする人が多い。   南岸は外海に直接面しているため、暴風時には岩場よりも高い波が押し寄せる強烈な海象となる。  津波が発生した場合、島に近づくにつれ急に波高を増して襲ってくるが、背後は急峻な崖が迫っていて逃げ場がない。  台地上の遊歩道は、人の背丈を遥かに越えるハチジョウススキが密生しており、眺望が効く場所は限られる。  やっと、ホテルがある長津呂崎に到着する。  ホテルでは、宿泊者に京急油壺マリンパークの入場券をサービスで提供してくれる。

   馬の脊洞門 地図の中央の矢印が馬の脊洞門です      <神奈川県三浦市三崎町城ケ島にて>
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     京急油壺マリンパーク屋内大海洋劇場でのイルカとアシカショウ

 城ヶ島から城ヶ島大橋を渡り、県道216号油壺線を走って京急油壺マリンパークへ。  マリンパークでは、先ず、最初に、ムカシオオホウジロザメの顎歯が出迎えてくれる。  入園ゲートを通ると、右手に、「かわうその森」がある。  園内の全体像を把握しようと、屋上展望台がある「すいぞくかん学園潮風校舎」へ。  屋上展望台に上がって、先ず、北を望む。 海の中で、荒崎が西へと延びている。  次に南を望む。 諸磯崎が海に突き出ている、先端の磯に諸磯崎灯台が微かに見える。   京急油壺マリンパークは、開業当初は来館者も多かったが、最近は近隣の新規大型水族館に客を奪われているらしい。  青い施設の「なぎさステージ」、その奥がメイン会場の「屋内大海洋劇場」がある。  魚が乱舞する彫刻塔を発見、魚の供養塔らしい。  ペンギン島の住民は、黄色い飾り羽がトレードマークのキタイワトビペンギン。  水族館「魚の国」では、40の水槽に、約450種、7000点が展示されている。  昼食はカレーでもと思ったが、ペンギンショップで簡単に済ます。  最後は、屋内大海洋劇場「ファンタジアム」で行われる。  イルカやアシカのパフォーマンス公演を観覧する。  画一的なショーに感動するよりも、「ひもじい」記憶が鮮明な世代には、餌で釣られるパフォーマー達への哀れみが先立つ。  初めて水族館を訪れたのは、60年前の「竹島水族館」、今まで訪れた水族館の中で最も貧弱だった。  何時廃館になっても可笑しくないと思われた「竹島水族館」が、今や、知名度は全国規模に、全くの驚き。  京急油壷マリーンパークを出て、国道134号三崎街道から、三浦縦貫道路、横浜横須賀道路、湾岸線を経て、東京湾アクアラインの海ほたるへ。  海ぼたるから房総半島を眺めるこの風景は、1998年3月14日以来、19年ぶりの景色だ。  海ほたるパーキングを経由すると、50km余りの遠回りになるが、今回の旅行の一つは、この海ぼたるである  1998年に開設した、ホームページで最初に掲載した写真が「海ほたる」のスナップ写真だった。  残りの人生を考えれば、再び海ほたるを訪れることはないだろうと思う。  海蛍の西端から川崎方面を望む、海の上に見えるのが、東京湾アクアラインの風の塔だろう。  売店や食堂街は観光客で溢れているが、西の端まで散策する人は少ない。  船を模した甲板には、東京湾アクアラインの建設記念碑とカッターフェイスが置かれている。  カッターフェイスは、実際に東京湾アクアラインの海底トンネルを掘り進んだシールドマシンのカッターフェイスを復元したものである。  建設当時は大騒ぎをしたが、心配したとおり、バルブ破裂の一切れとなった「負のレガシー」と云えるだろう。  海ぼたるから木更津に向かう。 上天気の観光シーズンにも拘わらず、走行している車は極稀である。  先回走ったときは、非常識な高額料金にも拘わらず、木更津から来た車が海ほたるに入れず、対岸まで待機していた。  フェリーと東京湾アクアラインで東京湾を横断した19年前の旅行の再現を無事完遂することができた。

油壺マリンパーク 地図の中央の矢印が油壺マリンパークです      <神奈川県三浦市三崎町小網代にて>
油壺マリンパークと海ほたるを、下記の「油壺マリンパークと海ほたる」のボタンをクリックして40枚のスライド写真でご覧ください。  

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