太東埼と八幡崎      2017年4月19日


   1972年に現在の場所に新築された太東埼灯台

 房総半島の東海岸を目指し、千葉東金道路の東金インターで出て東金九十九里道路を走る。  真亀インターで降りて、九十九里浜の中里中央海岸の南側第2駐車場へ。  海水浴場開設期間は有料となる駐車場も今は人影も無く、静かな砂浜である。  昨年の10月4日に、九十九里浜の木戸海岸から真亀インターまで走ったので、今回はその続きである。  中里中央海岸から、九十九里浜沿いの九十九里道路を走って上総国一之宮である「玉前神社」に向かう。
 玉前神社は延喜式神名帳には名神大社としてその名が列せられている。  神社は永禄年間の戦火で消失したため、創建の由来や年代が不明である。  神社の玉前は、古くは九十九里浜は「玉の浦」と称され、 太東崎を南端とするところから玉前(崎)となったとの説もある。  社殿は1687年に造営された、珍しい黒漆塗りの権現作造りである。  正面上部に、尉と姥の、高砂の彫刻があり、左甚五郎の作と云われている。  神社は、最近、平成の大修理が完成したばかりであり、一週間前の4月12日に本殿遷座祭が行われた。  社殿の建築様式は大唐破風・流れ入母屋権現造りで、銅板葺きである。  神楽殿では、江戸時代から伝わる上総神楽が上演される。  玉前神社神楽は千葉県の指定無形民族文化財になっている。  招魂殿には、日清・日露から第二次世界大戦までの一宮出身の戦没者をお祀りしている。
 玉前神社参拝後、外房黒潮ラインを南下し、太東埼灯台交差点を左折して太東埼灯台へ。  灯台では、5月4日に第11回太東埼ミニ燈台まつりが計画され、絶叫大会もある。  太東埼灯台の地上から頂部までの高さは15.9m、水面から灯火までの高さは72mである。  光質は単閃白光、光度は18万カンデラ、光達距離は約38kmである。  太東埼灯台は太東村の灯台が1950年に国に移管された機会に改築したものである。  1952年に太東埼灯台としてデビューし、1972年に現在の場所に新築された。  太東埼灯台の近くには、戦時中に日本海軍により設置された電波探知機の礎石や、米軍機を迎撃した機関銃座跡がある。  南を望むと、夷隅川河口の背後に和泉浦が見える。
 灯台に掲げられている「波の伊八」の解説版に釣られて、太東埼灯台から太東埼の海岸へ向かう。  伊八の外房の荒波を描いたいすみ市行元寺にある「波と宝珠」の彫刻は、北斎の「神奈川沖波裏」と構図が酷似している。  海岸から北を望むと、太東埼が海に突き出ている。 太東埼辺りは太東岬と呼ばれていて、南房総国定公園になっている。  岬の先端を巡る散策路はあるものの、波の侵食が酷く立ち入り禁止になっている。  太東岬の初日の出は離島を除くと、犬吠埼に次いで二番目に早いと云われている。  太東埼の南、岬町和泉志茂の海岸には海浜植物群落が広がっている。  太東海浜植物群落は大正9年7月に、日本で最初の国指定天然記念物に指定された。  この辺りは、地盤沈下と波の侵食が激しく、砂丘も大きく侵食され、 太東埼灯台も1972年に100m内陸に移設された。
 帰り道で、宮彫師「波の伊八」の作品がある飯縄寺の前を通過したので、バックして天狗が彫られている仁王門へ。  仁王門を入ると、左手に参観のための受付があり、ベルを押したが応答が無い。  飯縄寺の水屋は、1797年に岬町指定有形文化財に指定された。  1846年に建立された飯縄寺の鐘楼も、細部に至るまで彫刻が施されている。  飯縄寺は別名「天狗」の寺として、防災・海上安全などの祈願寺になっている。  飯縄寺本堂は1797年の建立で、「波の伊八」の彫刻と一体になった建造物である。  本堂には「波の伊八」の最高傑作と云われている「牛若丸と天狗」がある。  天狗の寺に相応しく、本堂正面上部にも天狗のお面がある。 飯縄寺を後にして、ドン・ロドリゴ上陸の地へ向かう。  

     太東埼灯台 地図の中央の矢印が太東埼灯台です      <千葉県いすみ市岬町和泉にて>
玉前神社と太東埼を、下記の玉前神社と太東埼のボタンをクリックして49枚のスライド写真でご覧ください。


 メキシコと日本の交流400周年の記念碑のメキシコ記念塔

 外房黒潮ラインを南下して、小池交差点で左折して進むと右側にメキシコ記念公園がある。  メキシコ記念公園には、1978年に来日したホセ・ロペス・ポルティーリョ大統領の来訪記念碑がある。  1609年に遭難した乗組員を海女達が素肌で暖め蘇生したと伝えられている。  メキシコ記念公園から西を望むと、岩和田漁港の向こうに網代湾が広がっている。  フィリピン総督ドン・ロドリゴ上陸の地は東の方向になる。
 メキシコ記念公園の中央には高さ17mのオベリスク型のメキシコ記念塔が立っている。  記念塔は正式には日西墨三国交通発祥記念之碑で、墨(墨西哥:メキシコ)日交流400周年の記念碑である。  メキシコ記念公園から東に戻り、海洋生物環境研究所の手前から海岸へ降りる小道を歩く。  1609年にサンフランシス号が遭難し上陸した地点に出る。 右手、岬の向こうに岩和田漁港がある。  ドン・ロドリゴを乗せた帆船はフィリッピンからメキシコに向けて航海中に台風に遭遇した。  船は岩和田海岸に座礁し56人が溺死、残る317人が岩和田村民に救出された。  ドン・ロドリゴ上陸の地辺りの岩和田海岸は断崖が連なり、今でも、海岸に下りるには縄が必要である。  大多喜城主本多忠朝の判断で、遭難者達は37日間岩和田大宮寺で手厚い保護を受けた。  遭難者達は、江戸城で秀忠、駿府で家康に謁し、1610年三浦安針が建造した船でメキシコに帰国した。
 ドン・ロドリゴ上陸の地から陸に上がると、道路の両側に公益財団法人「海洋生物環境研究所」の中央研究所の建物がある。  海洋生物環境研究所は、主に発電所の温排水が漁場環境に与える影響について 科学的に解明する調査研究機関として、1975年に設立された。  海洋生物環境研究所から西に向かい、岩和田海岸を通過して、清水川沿いの道を走と、  右手に月の砂漠記念館がある。 駐車場も閉鎖されていて閉館になっているようだ。  月の砂漠記念館の前の道路沿いに車を停めて外に出る、元禄地震再来想定津波高の表示がある。  月の砂漠記念館の前に広がる御宿海岸の砂浜を見て、大正時代の詩人加藤まさは「月の砂漠」の詩を書いた。  清水川に架かる橋を渡ると、白い砂浜の中にラクダに乗った王子と姫の月の砂漠像がある。  月の砂漠像を遠望して、浜勝浦の八幡岬公園に向かう。

   メキシコ記念塔 地図の中央の矢印がメキシコ記念塔です      <千葉県夷隅郡御宿町岩和田にて>
ドン・ロドリゴ上陸の地の風景を、下記の「ドン・ロドリゴ上陸の地」のボタンをクリックして34枚のスライド写真でご覧ください。  


 海抜70mの「ひらめきヶ丘」の上に建っている勝浦灯台

 外房黒潮ラインから左折して、勝浦市街地を通り抜け、南端の岬にある八幡岬公園に到着。  八幡岬公園は、室町時代から三代続いた勝浦城主正木氏の居城跡地を公園にしたものである。  八幡岬公園は八幡岬の高台にあり、右手に勝浦湾が広がっている。  お万様(養珠夫人)は1577年に勝浦城主の正木左近大夫頼忠の姫君としてこの地で生まれた。  八幡岬公園に入り子供の広場から、勝浦城があった小山を望む。 石段を登ると山頂に八幡神社がある。  子供広場の西にステージがある。 標高34mの展望広場に向かう。 岬の南には、太平洋が広がっている。
 展望広場には、お万様の立像がある、彼女は家康に見初められ、17歳で江戸城に入った  江戸城では「蔭山殿」と呼ばれ、家康に寵愛された  お万様は紀州の徳川頼宣と水戸の徳川頼房を生み、水戸黄門は彼女の孫である。  1590年の落城した時、炎上する城を後に母と幼い弟を連れ、 八幡岬の東側40mの断崖に白い布を垂らして海に下り、小船で館山方面に逃れた。  展望広場の東側の断崖を「お万の布さらし」と呼び、後世に伝えられている。
 展望デッキの上から、東を望むと断崖の上に勝浦灯台が見える。  勝浦灯台は、外房で最も東に突き出た、海抜70mの「ひらめきヶ丘」の上に建っている  勝浦灯台は、北の犬吠埼灯台、南の野島埼灯台と並んで関内を代表する灯台である。  最後に勝浦灯台を尋ねて、八幡崎公園から「ひらめきヶ丘」に来る。  灯台は勝浦航路標識事務所の敷地内にあり立ち入り禁止になっている  勝浦灯台の初点灯は1917年3月、塗色構造は白塔形、灯質は群閃白光、毎20秒に2閃光。  勝浦灯台の地上からの塔高は21m、水面からの灯高は71mである。  勝浦灯台から西を望むと、海の中に、八幡岬が突き出ている  南房総国定公園の中里中央海岸から勝浦の八幡岬までの旅を終え帰路に就く

     勝浦灯台 地図の中央の矢印が勝浦灯台です      <千葉県勝浦市川津にて>
八幡岬と勝浦灯台の風景を、下記の八幡岬と勝浦灯台のボタンをクリックして30枚のスライド写真でご覧ください。

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