安祥城      2017年4月13日



   左、本多忠勝の祖父にあたる武将本多忠豊の墓碑                  右、本多忠豊の長男で、本多忠勝の親である本多忠高の墓碑

 今日はMさんに安祥城周辺のガイドをお願いしてあるので、安祥城址公園に集合する。  Mさんが来られたので、笙の塔から本丸跡に向かう。 前方に安城市歴史博物館が見える。  本丸跡には、現在、大乗寺が建っている。  途中に、切岸と呼ばれる、自然の斜面を直角に切り落とし、敵の攻撃を防ぐ目的で造られた土手がある。  本丸跡である、本乗寺の南側の広場は低い丘陵になっている。 掘りの外が歴史博物館前交差点から来る車道である。  本丸跡の南西の小径を通って車道に出て、本丸跡を北に望む。 林の奥に大乗寺がある。
 車道を更に西南に進むと、東尾八幡社の境内になる。 境内の桜は満開である。  安祥城の二の丸跡に建つ東尾八幡社の鳥居と本殿が見えて来た  1540年の安祥城の攻防戦で、東条松平の康忠が戦死した場所に築かれた東条塚を見てから、 安祥城址を後にして、北側にある、真宗大谷派の明法寺に向かう。  明法寺には、1255年親鸞83歳の肖像画である「安城御影」が伝えられたことで知られている。  安城御影は戦国時代に本願寺に送られ、現在も所蔵されている。  境内には樹齢350年と云われている明法寺のイブキや親鸞聖人の坐像がある。
 岡崎刈谷線の拝木交差点から東に歩き、路地を南に下がると右手に本多忠勝の祖父にあたる武将忠豊の墓碑がある。  この地は1545年に、本多忠豊が奮戦し戦死した、第三次安城合戦の古戦場である。  本多忠豊墓碑から南に路地を3分程歩くと、東尾町内会遊園の前に、安城市場神の大黒石が祀られている。  大黒石の前から南を望むと、左手前に、1924年建造の旧東尾産業組合の事務所で、歴史的建造物になっている東尾町内会事務所がある。  1935年建造の旧東尾産業組合の農業倉庫も旧産業組合の歴史的建造物として管理されている。  旧東尾産業組合の農業倉庫から路地を南に、1分程歩くと、右側に中井と文字が読める石碑がある。  中井跡から更に南に進むと、歴史博物館前交差点に至る。 交差点の東に筒井泉跡がある。  筒井泉は、中井と共に、安城村南東の七つ井の一つで、安祥城主が茶の湯に用いたと云われている。
 歴史博物館前交差点を渡ると、右手に安祥城の本丸跡に建てられた大乗寺の山門が見える。  安祥城は1440年に畠山氏の一族である和田親兵が築城したと云われている。  1471年に松平信光が無欠落城し、以後四代松平氏の居城になる。  1524年に松平清康が拠点を岡崎に移したが、以後も重点拠点で有り続けた。  1540年、織田信秀が安祥城を落城し、城代に信広を置いた。  大乗寺に参拝する。 大乗寺は1489年、松平親忠が安祥城主になった時、了雲院を開創したのが始まりである。  1792年に了雲院が安祥城跡に、了雲院大乗院として移転している。  本堂の前の手水鉢には葵の門が見える。 最後に、境内にある本多忠高の墓碑に向う。  本多忠高は忠豊の長男で、忠勝の親である。 墓碑は第三次安城合戦での戦死地に建てられた。  本多忠高の墓碑を最後に、安祥城跡の散策を終える。

     安祥城跡 地図の中央の矢印が安祥城跡です      <愛知県安城市安城町城堀にて>
安祥城周辺の風景を、下記の安祥城のボタンをクリックして43枚のスライド写真でご覧ください。

次ページへ

最近のウォーキングより