「房総のむら」を目指して、関東自動車道の成田インターで下車して、国道295号線から成田屋安食バイパスを走る。
体験博物館である千葉県立「房総のむら」に到着。 房総のむらは、展示だけでなく来館者自らが五感を通して直接体験する場である。
出入り口の大木戸を入ると、左手に「商家の町並み」があり、旧佐原市などに残る古い町並めを再現している。
商家の町並みは商家16棟と総屋・地蔵堂などで構成されている。 呉服の店「上総屋」を覗く。
商家の町並みを出て、広い園内を西に向かう。 風土記の丘資料館が見えてきた。
資料館に隣接して二基の竪穴住居が復元されている。 最初に古墳時代の住居へ。
住居跡は7世紀初め頃のもので、かまどは5世紀には関東地方にも出現した。
もう一つの弥生時代中期の竪穴住居には、4本の柱がある。
資料館では原始・古代・中世の遺跡から出土したものを収集展示している。
資料館の1階第1展示室には房総の古墳と古代の寺の出土品を展示している。
2階展示回廊にはナウマン象の骨格模型や旧石器時代の石器などが展示されている。
「房総風土記の丘資料館」の周囲には県内有数の規模を誇る龍角寺古墳群が所在する。
資料館の前には、長さ48m、高さ6.3mの前方後円墳が横たわっている。
龍角寺古墳群は下総台地上に、6世紀前半から7世紀にかけて造営された。
前方後円墳が37基、方墳が6基、円墳が71基の114基が確認されている。
園内の南にある「印旛沼の見える遊歩道」を歩く。 右側遥か遠くに印旛沼が見える。
遊歩道の先に、1751年に富津市に立てられた「旧平野屋住宅」がある。
園内の南東の隅に、重要文化財に指定された「旧学習院初等科聖堂」がある。
1899年に東京四谷尾張町に学習院の講堂として建てられたが、1937年に遠山村の小学校に払い下げられた。
旧学習院初等科聖堂は、明治期の学校の講堂建築を伝える代表的な建造物である。
旧学習院初等科聖堂に隣接して101号古墳がある。 墳頂部と墳丘の裾部に円筒埴輪や朝顔形埴輪が並びたてられていた。
この古墳は、6世紀前半に二重に周溝を巡らした円墳として造られた。
平成3年度に当時の姿に復元され、平成4年度から一般公開されている。
101号古墳の南側には坂田ヶ池が広がっていて「坂田ヶ池総合公園」になっている。
約5ヘクタールの水面を有する坂田ヶ池の周りには遊歩道が整備されている。
池の中央には人道橋が架かっている。 北岸から南岸に渡る。
坂田ヶ池には、洪水を防ぐために人柱にされたという悲しい母と子の伝説がある。
園内の遊具は、印旛沼周辺に伝わる竜神降雨伝説に因んで大龍・小龍の形をしている。
坂田ヶ池の東に、1314年に開山した時宗の円光寺がある。
本堂は昭和47年に再建され、本尊の阿弥陀三尊像の阿弥陀如来の背面には1309年の陰刻がある。
時宗宗祖の一遍上人像に送られて円光寺を出て、龍角寺旧参道を進み、房総の村へ戻る。
龍角寺旧参道を北に歩くと、右手に岩屋古墳が現れる。
国史跡「龍角寺古墳群・岩屋古墳」の龍角寺105号墳(岩屋古墳)は7世紀中頃に築造された。
埋葬施設としては、切石積横穴式石室東西2室、 墳形は、一辺78m、高さ13.2mの方墳である。
古墳時代終末期の方墳としては、全国第一位の規模を誇り、現在、蘇我蝦夷の墓かと話題になっている小山田古墳を凌ぐ。
岩屋古墳は龍角寺の創建に係り、後の埴生郡司に繋がる印旛国造一族の墓と考えられている。
今話題の小山田古墳、最近訪れた稲荷山古墳や長柄桜山古墳に思いを馳せながら「房総のむら」を後にする。
房総のむら
地図の中央の矢印が房総のむらです <千葉県印旛郡栄町龍角寺にて>
武蔵国分尼寺を、下記の武蔵国分尼寺のボタンをクリックして44枚のスライド写真でご覧ください。