喜多方ラーメン      2017年3月19日


   研究室で博士の話を聞きながら息子と読んだ伝記を思い出す

 連休の中での宿を確保できた旅籠屋須賀川店で朝を迎える。  日本では珍しいモーテルタイプの旅籠屋には時々厄介になっている。  旅籠屋の前には、国道4号線の奥州街道が南北に走っている。  宿を出て、猪苗代湖の湖畔にある野口英世記念館に向かう。
 野口英世記念館では、最初に野口英世像が出迎えてくれる。 記念館には、隣接して野口英世の生家がある。  野口英世は1823年に、この家の納戸と呼ばれる部屋で生まれた。  生家の横には、「野口英世誕生の地の碑」と「英世の自筆を刻んだ碑」が立っている。  生家の前には、現在も英世の母シカが洗いものをした小川が残されている。  英世が1歳半の時に落ちてやけどを負った囲炉裏が見える。  部屋の左の床柱には、清作が上京の際柱に刻んだ決意文が当時のままに保存されている。  生家は、江戸時代の後期の1823年にこの場所に建てられた。  苦学しながら医師の資格を得た東京時代、梅毒スピロヘータの研究でノーベル候補になった渡米時代、 シカの手紙などの展示を見る。  人目会いたいとの気持ちを綴ったシカの手紙は「母から子への手紙コンテスト」に引き継がれている。  野口博士の研究室で博士の話を聞きながら、40年前に息子と一緒に読んだ野口英世の伝記を思い出す。
 野口英世記念館の窓から眺める猪苗代湖の湖畔は雪一色の風景である。  記念館を出て、磐越自動車道を西走し、湯川村の勝常寺に向かう。  会津中央薬師堂とも称される勝常寺に到着。 山門の柱には、拝観終了、四月から開館の札が掲げてある。  勝常寺薬師堂は室町時代初期に蘆名氏家臣の富田祐持によって再建された。  常寺は法相宗の学僧・徳一によって開かれたといわれている。  寺には、平安時代初期の国宝である木造薬師如来及び両脇侍像がある。  拝観を諦め、勝常寺からラーメンを求めて喜多方に向かう。

     野口英世記念館 地図の中央の矢印が野口英世記念館です      <福島県耶麻郡猪苗代町三ツ和にて>
野口英世記念館を、下記の野口英世記念館のボタンをクリックして38枚のスライド写真でご覧ください。


 地元の喜多方ラーメンを体験したラーメン「香福」

 喜多川市の田付川幸橋東詰にある西四ツ谷観光案内所の駐車場に到着。 橋を渡って東に歩く。  右手に喜多方ラーメン館を見ながら、市役所通りを西に歩く。  市役所通りから右折して、御清水稲荷神社の前を通り過ぎると坂内食堂がある。  行列待ちの長さに辟易し、隣の食堂「松」の最後尾に付く。  坂内食堂の列は御清水稲荷神社の前を通り過ぎている。 松も諦めて次の人気店を探す。
 ふれあい通りまで歩いて右折し、南を望む、右横に倉座敷美術館がある。  北に進むと、左手にラーメン「香福」がある。 店内は満席であるが、外での待ち人も無いのでこの店にする。  喜多方ラーメンと云ったらチャーシューメンらしい。 喜多方ではチャーシューメンでなく、肉ラーメンと呼んでいる。  香福では、600円のラーメンの他には、お肉、告白、青春の三種類のラーメンしかない。  出された肉ラーメンの丼がお肉に覆われているのには驚いた。 香福を出て、喜多方の町並みを見ながら散歩する。
 右手前方に、喜多方ラーメン神社が見えてきた。 割り箸をイメージした鳥居型の入口が目印、ご神体はラーメン丼である。  喜多方ラーメンは福島県喜多方市発祥のご当地ラーメンで、 喜多方には120軒ほどのラーメン店があり、対人口比の店舗数では日本一である。  喜多方ラーメンは、札幌、博多と並んで日本三大ラーメンの一つに数えられている。  途中でUターン、昭和レトロミュージアムを覗き、市役所通りに出て駐車場へ。  喜多方の街を離れて、国道118号の日光街道を南下して大内宿へ向かう。

   ラーメン香福 地図の中央の矢印が香福です      <福島県喜多方市三丁目にて>
喜多方の街の風景を、下記の「喜多方」のボタンをクリックして28枚のスライド写真でご覧ください。  


 未だ雪に囲まれている大内宿本陣跡に建てられた大内宿町並み展示館

 昨年は秋の大内宿を訪れたが、今回は冬の大内宿を訪れる。 紅葉の時期と比較して、雪の時期の大内宿は淋しい。  お店は開いているが、観光客の姿はない。 屋根の上には雪がどっさりと乗っている。  昨年、「ねぎ一本そば」を食べた、手打ちそばの「大黒屋」の前を通過。 積雪が余り見られない暖国育ちの人には寒さが厳しい。  雪景色だけでは間が持てないので、大内宿町並み展示館に入る。 元気な連中は、展示館の前の雪原で雪合戦に興じている。  展示館は大内宿本陣跡に建てられた。 大内宿は会津と奥州街道を結ぶ会津西街道の拠点のひとつだった。  会津藩の初代藩主保科正之がここで昼食をとった記録が残っている。 ガイドさんの解説では大内宿は妻籠・馬篭に比肩する宿場である。  大内宿の突き当たりの石段を登ると、1575年に開山された古寺の正法寺がある。  会津戊辰戦争の際には、正法寺が新政府軍の兵糧役場兼救護所として利用された。  冬景色が残る大内宿を後にして、再び、日光街道を南下する。 今日の最後の観光地の「塔のへつり」に到着。  昨年の秋景色に対して、雪景色を期待していたが積雪は余り見られず。 阿賀川に架かる藤見橋を渡って巨石柱が並ぶ対岸へ。  舞台石の上に立って、大声で叫んでみる。 「へつり」とは、方言で断崖・絶壁・急斜面・川岸などの険しい道のことである。  塔のへつりは大川ラインの中でも最大の渓谷美と云われている。  大川は会津盆地では阿賀川と呼ばれ、新潟県に入ると阿賀野川と名を変える。  藤見橋を当たり、阿武隈に続いて、会津地方の二日目の旅を終える。  塔のへつりを離れて、日光街道を南下し、今夜の宿である鬼怒川温泉の「絹の渓流 碧流」に向かう。

     大内宿町並み展示館 地図の中央の矢印が展示館です      <福島県南会津郡下郷町大内」の地図にて>
冬の大内宿の風景を、下記の冬の大内宿のボタンをクリックして30枚のスライド写真でご覧ください。

次ページへ

最近のウォーキングより