飛鳥山公園散策のために、京浜東北線の上中里駅で下車する。
駅から蝉坂を南下し、本郷通りの平塚神社前を右折すると右手に平塚神社がある。
平安時代に秩父平氏豊島近義が、この場所に城(平塚城)を築てたと伝わっている。
平安後期の後三年の役の帰路に、源義家(八幡太郎)ら三兄弟がこの館に逗留し手厚いもてなしを受けた。
義家は鎧一領と十一面観音像を近義に下賜し、鎧を城の守り本尊として塚を築き埋めたのが塚の初めとされる。
この塚は、鎧塚、甲冑塚と呼ばれたが、塚が平たかったことから「平塚」とよばれ、これが当地郷の地名のおこりとされる。
平塚神社に祀られているのは、源義家、源義綱、源義光である。
神社の境内には、上中里西方不動尊と摩利支天が祀られている。
平塚神社を出て、本郷通りを西に進むと、右手に滝野川消防署と防災センターがある。
東京都北区防災センターには地震の科学館がある。
館内では人生で唯一体験した三河地震の記録もあった。
戦時中で実情が隠匿された、幻の三河地震はM6.8、死者2,306人、全半壊23,776棟であった。
家の前を津波が来るぞと叫びながら走って行った人の声が今でも生々しく耳に残っている。
館内では、地震の揺れなどを体験できるコーナーもある。
防災センターの前には滝野川公園が広がっている。
滝野川公園は、アスレチック遊具やブランコなどの子どもの遊び場がある。
公園は応急給水槽や散水塔、災害備蓄倉庫などが設備されており、防災拠点としても利用が可能である。
滝野川公園の前から本郷通りを東に望む。 左前に滝野川消防署がある。
公園の西に、花と森の東京病院があり、その前に「東京高等蚕糸学校発祥之地」の碑がある。
花と森の東京病院は77年の歴史ある国立印刷局東京病院を受け継ぎ、平成25年再スタートした病院である。
病院を過ぎると、地下鉄の東京メトロ南北線の西ヶ原駅がある。
駅の前には、独立行政法人国立印刷局東京工場がある。
滝野川警察署前交差点を過ぎると、本郷通りの道路の真ん中に緑地帯があり、中央に一里塚がある。
西ヶ原一里塚は、江戸の日本橋から日光まで続く「日光御成道」の二里目の一里塚で国指定文化財である。
一里塚交差点から本郷通りを北西に望むと、右手前方に飛鳥山公園が広がる。
西ヶ原一里塚
地図の中央の矢印が西ヶ原一里塚です <東京都北区西ケ原2丁目13にて>
平塚神社から西ヶ原一里塚までの風景を、下記の平塚神社から西ヶ原一里塚のボタンをクリックして29枚のスライド写真でご覧ください。
飛鳥山公園の手前、西ヶ原一里塚の北側に七社神社がある。
七社神社は、古くから西ヶ原村の鎮守として奉祀されている由緒ある神社である。
神社は1793のの火災により古文書、古記録等を焼失したため創建などは不明である。
「江戸名所図会」には無量寺の高台に「七社」として描かれている。
飛鳥山公園の最初の訪問先は、渋沢栄一邸宅跡の旧渋沢庭園である。
旧邸内に残る大正期の建物は、現在、「晩香廬」と「青淵文庫」の二つだけである。
青淵文庫は1925年に竣工され、鉄筋コンクリート・煉瓦造りの2階建てで、
建物の延べ床面積は330平方米、設計は中村・田辺建築事務所、施行は清水建設である。
外壁には白い伊豆産の月出石が貼られ、露台上の壁面にはフランス窓があり、上部にはステンドグラスが嵌められている。
青淵文庫は、渋沢栄一の80歳のお祝いと、男爵から子爵に昇格した祝いを兼ねて竜門社が寄贈した。
渋沢家の家紋「丸に違い柏」に因んで柏の葉をデザインしたステンドグラスやタイルが非常に美しい洋館である。
当初収蔵されていた「論語」をはじめ多くの漢籍は、1963年、渋沢家から東京都立日比谷図書館に寄贈された。
寄贈された漢籍は、現在、東京都立中央図書館に所蔵されている。
二階へ上がる階段室は吹き抜けの螺旋状に組まれており、背部へ丸く突き出して外観へのアクセントを与えている。
「青淵文庫」と共に現存し、重要文化財に指定されている「晩香蘆」に向かう。
晩香蘆は1917年に竣工された、木造瓦葺き平屋建ての建物で、延べ面積は72平方米である。
晩香廬は、渋沢栄一の喜寿を祝って現在の清水建設が贈った洋風茶室で、
内外の賓客を迎えるレセプション・ルームとして使用された。
晩香盧の中は写真撮影禁止であるが、内部の談話室にはテーブルと暖炉など、当時の家具調度品が残されている。
晩香盧の近くに、渋沢栄一の銅像が立っているが、一見凡人風である。
晩香盧見学の後は、渋沢栄一の活動を広く紹介する博物館として、1982年に開館した渋沢史料館へ向かう。
史料館では渋沢栄一の生涯と事績に関する資料を収蔵、展示し、関連イベントなども随時開催している。
渋沢栄一は、日本の近代経済社会の基礎を築き、社会公共事業、民間外交の面においても指導的役割を果たした。
資料館の前に、日本と中国の国交正常化を記念して立てられた、北村西望の「平和の女神像」がある。
青淵文庫
地図の中央の矢印が青淵文庫です <東京都北区西ケ原2丁目16にて>
旧渋沢庭園と渋沢史料館を、下記の「旧渋沢庭園と渋沢史料館」のボタンをクリックして31枚のスライド写真でご覧ください。
渋沢資料館に隣接して、北区飛鳥山博物館がある。
入館して最初に、3階にある軽食喫茶カフェ「ヴァーチュ」で軽食を頂く。
博物館では、北区や近隣地域の考古、歴史、民俗等や自然に関するものを展示している。
中里遺跡は低地に立地する遺跡で、土器群のほかに丸木舟が見つかっている。
西ヶ原貝塚から出土した人骨が展示され、縄文人の姿や暮らしについて解説されている。
弥生人のムラの竪穴住居の一部を実物大で復元され、ムラヘの侵入者との争いの様子を映像で再現している。
飛鳥山劇場では、江戸時代の将軍の御膳所であった金輪寺の座敷が再現され、映像展示によって、近世の北区が学べる。
北区飛鳥山博物館の窓から飛鳥山公園を眺める。 公園内は親子連れで大騒ぎである。
公園には、渋沢資料館、北区飛鳥山博物館、紙の博物館の3つの博物館がある。
紙の博物館は、北区堀船の王子製紙王子工場跡地に製紙記念館として設立された。
館内では、同年輩に近い王子製紙のOBの方が、丁寧に説明してくださり大いに盛り上がった。
飛鳥山公園は、江戸時代から庶民に花見の名所として親しまれてきた北区を代表する公園である。
徳川吉宗は約300年前、享保の改革の施策のひとつとして、江戸っ子たちの行楽の地として、飛鳥山を桜の名所にした。
園内には、飛鳥山公園脇の荒川線を走っていた、戦後初の新造車両である「都電6080」が展示してある。
又、1860年、佐久間象山が50歳の作といわれる「桜の賦の碑」や、
吉宗が飛鳥山を園地として開放した記念として、金輪寺の住職宥衛が1737年に建立した「飛鳥山碑」がある。
園内には飛鳥山の歴史が記されている石碑があり、吉宗がこの地を王子権現に寄進し、桜、松、楓を植えたと云う。
噴水がある多目的広場の北端に、野外ステージの飛鳥舞台がある。
飛鳥舞台は、能舞台をイメージしたヒノキ作造りのステージで、各種イベントが行われる。
飛鳥山山頂にあるモニュメントがある。
飛鳥山は標高25.4mであるのに、標高25.7mの愛宕山が「東京一低い山」になっている。
飛鳥山公園には、自走式モノレール方式の斜行昇降施設「あすかパークレール」がある。
「あすかパークレール」は高齢者や障害者、ベビーカー利用者でも気軽に飛鳥山に登れるように、2009年に誕生した
車両はかたつむりに似ていて「アスカルゴ」と呼ばれ、ゆっくりと飛鳥山の山頂を目指して登る。
無料で乗車出来ることから、花見の時は長い列が出来ると云う。
アスカルゴに乗車して王子駅を目指す。 国道122号線が目の前に迫ってきた、間もなく、王子駅である。
あすかパークレールは、公園入り口から山頂までの高低差約18m、レール延長48mを2分で結んでいる。
公園入口駅に到着、今日の飛鳥山公園散策も有意義なひと時であった。
国道122号線が潜る、東北本線宇都宮線のガードの下に、王子駅中央口の表示が見えてきた。
飛鳥山の山頂
地図の中央の矢印が飛鳥山の山頂です <東京都北区王子1丁目1にて>
飛鳥山公園を、下記の飛鳥山公園のボタンをクリックして33枚のスライド写真でご覧ください。