鶯谷から三の輪へ      2016年12月12日


   平安時代の学者小野篁を祀っている小野照崎神社

 今日は江戸の賑わいを垣間見ようと、山手線の鶯谷駅で下車する。  言問通りの鶯谷駅前交差点に出て、元三島神社を探す。  元三島神社の入口は言問通りにあるも、所在地は鶯谷駅の直ぐ近くにあることが分かる。  神社は鶯谷駅のプラットホームからも見え、神社の周りには、飲み屋とラブホテルしかない。  元三島神社へ。 参拝前に茅の輪を潜り身を清める。 境内には子規の「木槿咲て 絵師の家問ふ 三嶋前」の歌碑がある。  神社は大三島の大山祇神社を上野山の河野館に勧請したのが縁起である。 神社の社殿は1976年に再建された。  三元三島神社の参拝を終え、ラブホテル街を抜けて言問通りに出る。
 鶯谷駅交差点で、言問通りを南東の方向に歩いて、要伝寺の前を通り、直ぐに左折し、根岸四丁目交差点を目指して歩く。  この通りは「うぐいす通り」と呼ばれている。 左側の西蔵院の山門の前に「根岸小学校発祥之地」の碑がある。  根岸四丁目交差点を通り過ぎると、右手に「御行の松」で名高い西蔵院の不動堂がある。  御行の松は樹齢350年程で天然記念物に指定されたが枯死し、現代の松は3代目である。  初代の松の根を掘り起こして彫られた仏像が同寺に安置されている。  御行の松は、江戸名所図会や広重の錦絵にも描かれ、樋口一葉の作品「琴の音」や子規の俳句の題材にもなった。  御行の松不動尊の参拝を終え、根岸四丁目交差点まで戻り、左折して、根岸柳通りを進むと、左手に「海老屋」がある。  海老屋は明治34年創業の紺屋で、お店のウィンドーには、林家三平と正蔵の名前入りの半纏があった。
 海老屋から、根岸柳通りを更に歩くと、柳通り交差点がある。  根岸柳通り交差点を右折して金杉通りを南西に歩くと、根岸三丁目交差点の手前の小道に、 「小野照崎神社」の石柱が立っていたので、そこで左折する。  小野照崎神社に到着。 平安時代の学者、小野篁を祀る神社である。  神社の境内には、国指定重要有形民俗文化財の富士塚がある。  この富士塚は富士山の溶岩を運んできて築山したと云われている。  小野照崎神社の庚申塚には、全部で11もの庚申塔が集められている。  神社は、樋口一葉の「たけくらべ」に「小野照さま」の名で出ている。  小野照崎神社は、852年に、この地の住民が上野照崎の地に小野篁を奉斎したのが起源と伝わっている。

     小野照崎神社 地図の中央の矢印が小野照崎神社です      <東京都台東区下谷2丁目13にて>
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 おそれ入谷の鬼子母神で知られいる信源寺

 小野照崎神社を出て、直ぐ前にある、1648年に日照が創建した法昌寺へ。  法昌寺は下谷七福神のひとつ毘沙門天が祀られている。  毘沙門天のお堂のかたわらには、 コメディアンたこ八郎の「たこ地蔵」がある。  法昌寺の次は英信寺へ。 英信の名は、丹波篠山藩主・松平康信の子・英信に由来する。   英信寺には弘法大師御真作と伝えられる三面大黒天が、 御本堂左側大黒堂に安置され、下谷七福神の大黒天と呼ばれる。
 英信寺から金杉通りを南下し、言問通りの根岸一丁目交差点に出て、 言問通りを国道4号線まで歩く。  昭和通りを跨ぐ歩道橋のから言問通りを望む。  歩道橋から、言問通りを北西に戻ると、左手に入谷鬼子母神の信源寺がある。  信源寺は7月の朝顔市や大田蜀山人の「おそれ入谷の鬼子母神」で知られている。  寺には、下谷七福神の一つ福禄寿が祀られている。
 再び、言問通りを国道4号線まで戻り、長い歩道橋を渡って、昭和通りを北東に向かって歩く。  右手に東京トヨペットがある。 北側の路地に入ると、その先に弁天院公園がある。  弁天院公園には下谷七福神の一つである弁財天を祀った朝日弁財天がある。  財天の開基は備中松山城の水谷伊勢守が、寛永初年に不忍池と下屋敷であった水の谷の池に弁財天祠を祀った。  西方の不忍の夕日に対し、東方の水の谷を朝日弁財天と称した。  入谷朝日弁財天に参拝し、東側の門から出て、南側の路地を東に進むと国際通りに出る。

   入谷鬼子母神 地図の中央の矢印が入谷鬼子母神です      <東京都台東区下谷1丁目12にて>
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   熊手御守が得られる酉の市で知られている鷲神社

 国際通りに出ると、右手前方に鷲神社が見える。  鷲神社前交差点を渡って鷲神社へ。 鷲神社は毎年11月の酉の日に行われる酉の市で知られている。  浅草酉乃市御本社、鷲神社と書かれたど派手な叉木を潜り、朱塗りの大鳥居を潜ると、更に、天保10年建立の小鳥居がある。  社伝によると、天手力男命が天之岩戸をお開きになった時、楽器を司った神様の弦の先に鷲がとまったのを、 瑞象を現した鳥だとお喜びになり、鷲大明神、天日鷲命と称され、この地に祀られたと云う。  日本武尊が東夷征討の際、戦勝を祈願し帰途、社前の松に武具の「熊手」をかけて勝ち戦を祝ったと云う。  鷲神社の熊手御守は開運・商売繁昌のお守りとして「酉の市」のみに授与される。  鷲神社の御社殿の左に渡殿、更に神楽殿がある並んでいる。  拝殿の中央に、なでると、様々な御利益があると言われている「なでおかめ」がある。  境内には、「雑閙や 熊手押あふ 酉の市」と刻まれた子規の句碑や樋口一葉玉梓乃碑がある。
 鷲神社から国際通りをせんわ通りの交差点まで南下し、 左折してせんわ通りに入り、最初の角を左折すると吉原弁財天がある。  吉原弁財天の弁天様は「浅草七福神」の一柱に数えられている。  境内にある「吉原観音」は、関東大震災で亡くなった遊女たちの供養のために建立された。  明暦3年(1657)年の大火後、幕府の命により、日本橋の吉原遊郭がこの地に移された。  以来、昭和33年までの300年間に及ぶ遊郭街新吉原の歴史が始まった訳だ。  湿地帯が遊郭造成された際、池の一部は残り、池畔に弁天祠が祀られ、遊郭楼主たちの信仰をあつめた。  関東大震災では多くの人々がこの池に逃れ490人が溺死したという悲劇が起こったと云う。  吉原弁財天の近くに吉原神社があり、吉原弁財天は吉原神社の合祀されている。  吉原弁財天は吉原遊女の社ということで、社が華麗に色彩が施されている。
 吉原弁財天本宮から北に歩き、花園公園を過ぎると吉原神社がある。  吉原神社は、かつて吉原遊郭にお祀りされていた五つの稲荷神社と吉原弁財天を合祀した神社である。  御祭神は倉稲魂命で、吉原遊郭の遊女等による信仰を集めたことから、女性の願いを叶えてくれる。  吉原神社の参拝を終え、仲之町通りに出て、北東を望むと千束保健センター交差点がある。  下谷飛不動を探し、飛不動前交差点から南下してやっと見つける。  正寶院の本尊は木造不動明王坐像で「飛不動」の通称で知られている。  1530年創建と云われる修験寺院で、現在、天台宗系の単立寺院である。  飛不動の名の由来は、住職が大和国大峰山に本像を持って修業に行ったところ、一夜にして飛び帰ったと云う。  飛不動は、近年、航空安全の守護神として信仰を集めている。  飛不動交差点まで戻り、国際通りに向かうと右手に「樋口一葉旧居跡」の石碑がある。  この地で「たけくらべ」の題材を得たとのこと。  国際通りを北上すると、国道4号で交差するし、三ノ輪交差点に出る。  地下鉄三ノ輪駅から乗車して、帰路に就く。

     鷲神社 地図の中央の矢印が鷲神社です      <東京都台東区千束3丁目18にて>
千束から三ノ輪へまでの風景を、下記の新橋から汐留までのボタンをクリックして41枚のスライド写真でご覧ください。

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