湖東三山を目指して名神自動車道を走る。 養老サービスエリアに寄る。
最初に西明寺へ。 駐車場から総門を潜ると中門への参道が続く。 中門に向かって石段を登る。 両側の紅葉が綺麗である。
龍應山西明寺は湖東三山の一つ、天台宗の寺で、西国四十九薬師霊場第三十二番霊場及び神仏霊場百三十六滋賀第四番霊場である。
又、びわ湖百八霊場第六十一番霊場、近江湖東二十七名刹霊場第八番霊場でもある。
834年に三修上人が、仁明天皇の勅願により開創された寺院である。
左手に、名勝庭園「蓬莱庭」を囲む石垣が見えてきた。 庭園の出入り口になっている中門に到着。
西明寺の駐車場は惣門の前の他に、この中門の横にもある。 中門を入ると右手にある蓬莱庭が、コースの順路にであるが、先ず、左手の庭園へ。
紅葉は落葉し始め、ピンクの絨毯が広がっている。 名勝庭園の「蓬莱庭」へ。 蓬莱庭は江戸時代の1673年に望月越中守が造営した。
枯滝、枯山水との調和のとれた小堀遠州をまねた造園になっている。 池の水の部分は心字池となっていて池泉回遊式である。
池の中央は折り鶴を形どった鶴島で左が亀島である。 築山の立石群は本堂に安置している本尊薬師如来や他の仏像をお迎えしていると云われている。
植木の刈り込みは雲を形どり仏の世界を仮想具現したのである。 庭園には、薬師如来、日光、月光の三尊仏をあらわす立石がある。
一方通行になっている順路の坂を登り、蓬莱庭から本堂に向かう。 本堂は母屋造り、桧皮葺、鎌倉時代前期の和洋建築である。
本堂中央の厨子には秘仏である本尊薬師如来立像が安置されている。 国宝第一号指定の本堂は、飛騨の匠が建立した純和様建築で釘を使用してない。
本堂の横に、飛騨の匠が建立した高さ23.7mの三重塔がある。 西明寺は祈祷道場、修行道場として栄え、山内には17の諸堂と300の僧坊があった。
本堂前の二天門を潜ると惣門へ続く参道がある。 二天門から下ると、西明寺の霊木である樹齢約1000年の「夫婦杉」がある。
西明寺には源頼朝が来寺して戦勝祈願をしたと伝えられている。 戦国時代に織田信長が比叡山の焼き討ちの直後、西明寺も焼き討ちをした。
本堂、三重塔、二天門は火難を逃れ現存している。 江戸時代天海大僧正、公海大僧正の尽力により、望月越中守友閑が西明寺を復興した。
西明寺には、最近は、22年前の1995年11月19日と、29年前の1988年4月3日に訪れていた。 十一面観音像を最後に、西明寺の参拝を終える。
西明寺
地図の中央の矢印が西明寺です <滋賀県犬上郡甲良町池寺にて>
西明寺の紅葉を、下記の西明寺の紅葉のボタンをクリックして51枚のスライド写真でご覧ください。
湖東三山では真ん中にある、金剛輪寺の駐車場に到着。 正面にある惣門を潜ると、右手に金剛輪寺の受付がある。
天台宗金剛輪寺は近江西国第十五番札所で、びわ湖百八霊場第六十三番札所及び湖国十一面観音第十一番札所であるが、
近江七福神霊場、神仏霊場滋賀三番札所、近江湖東二十七名刹第十番札所でもある。 石畳の参道を本堂に向かって歩く。
松峰山金剛輪寺は741年に、聖武天皇の勅願寺として行基菩薩が開山した。 850年に延暦寺の慈覚大師が来山し、金剛輪寺は天台の大寺になった。
1183年には義経が参籠し、十数日武運必勝を祈願し、太刀を寄進した。 金剛輪寺赤門に到着。 1246年には三重塔が創建された。
赤門の次に白門がある、白門を潜ると金剛輪寺の名勝庭園がある。 白門から本堂への石畳の参道を登る、両側に千体地蔵が並ぶ。
1573年信長の焼き討ちに対し、本堂、三重塔、二天門はその難を逃れた。 二天門は和洋様式の形式から、室町時代の建築と考えられる。
八脚門ともいわれるように当初は楼門であったが江戸時代中頃に二階部分を取り壊し、現在の一重になった。
二天門を潜ると本堂の前に出る、昔の記憶ではこの辺りの紅葉が湖東三山で最高だった。 金剛輪寺の紅葉は血染め紅葉と云われている。
国宝である1288年建立の本堂大悲閣は中世天台仏堂の代表作といわれている。 本尊の聖観音立像は、他の多くの天台寺院の本尊と同様、秘仏である。
行基が彫った秘仏本尊聖観世音菩薩は生身の観音様といわれている。
国の重要文化財に指定されている金剛輪寺の三重塔は本堂の左の一段高い場所に建っている。
寺伝では、三重塔は鎌倉時代の1246年の建立になっている。 様式的には南北朝時代の建築とみられる。
三重塔は、織田信長の焼き討ちはまぬがれたものの、近世以降は荒廃していた。
現状の塔は1975年から1978年にかけて修理復元されたものである。
五木寛之は百寺巡礼で、湖東三山の西明寺と百済寺は取り上げているが金剛輪寺は無い。
二天門には大草鞋が掲げてあるが、五木さんが紹介した百済寺の仁王門ほどの話題性はない。
最後に、金剛輪寺本坊明寿院の名勝庭園へ。 庭園は桃山、江戸初期、江戸中期と違う時代に作庭された。
明寿院庭園は三庭からなる池泉回遊・観賞式庭園で後方の山が借景になっている。
金剛輪寺本坊の明寿院は学頭所として使われた建物で、1977年消失したが、その後再建された。
庭を見下ろすような少し高い位置に茶室「水雲閣」が建っている。
明寿院庭園の作者は不詳だが、老杉蒼松の自然を背景に灯籠や泉、石、樹木などを配置した美しい庭である。
庭園を最後に金剛輪寺の参拝を終え、次の目的地である百済寺へ。
金剛輪寺
地図の中央の矢印が金剛輪寺です <滋賀県愛知郡愛荘町松尾寺にて>
金剛輪寺の紅葉を、下記の「金剛輪寺の紅葉」のボタンをクリックして59枚のスライド写真でご覧ください。
湖東三山の三つ目の寺である釈迦山百済寺に到着。 百済寺は近江西国第16番札所、神仏霊場第141番札所である。
百済寺は聖徳太子の御願により百済人のために創建された。 門を潜ると、釈迦山百済寺喜見院がある。
喜見院は百済寺の本坊機能を有する釈迦山で唯一の一山寺院である。 喜見院の御本尊は阿弥陀如来の木立像である。
喜見院には、百済寺での最大の観光スポットである「天下遠望の庭園」がある。
庭園の入口に、小野道風参拝時の直筆とつたえられる「下乗」之碑がある。
庭園は昭和10年以降喜見院が現地に移築された際、旧庭園も現在地に拡大移築された。
別名「天下遠望の庭園」と称されるこの庭園は、百済国と母山比叡を真西に望む位置にある。
この庭園を宣教師ルイス・フロイスが「地上の天国」と絶賛した。 彼は、明月記にある「観音浄地の景勝」の再現と云っている。
百済寺からは白鳳期と推定される布目の瓦の破片が出土している。 百済寺は、愛知郡誌によれば近江国最古の寺院である。
源平盛衰記に、1183年に木曽義仲に百済寺より五百石の兵米を送ると記されている。
室町時代に本堂付近を消失し、寺暦を物語るものも消失した。
1498年の大火の時、中御門宣秀の書簡に百済寺三百坊の記述がある。 喜見院から裏山の小道を登って本堂へ向かう。
喜見院の裏山も紅葉の見所の一つである。 戦国時代に、近江源氏佐々木六角氏が百済寺に石垣を築き要塞化した。
六角氏に見方をした百済寺は信長の焼き討ちにあった。 ルイス・フロイスの書簡にも惜しまれる様子が記録されている。
信長は百済寺の石垣を安土まで運び出したと云われている。 運び出している光景は、寺所蔵の「石曳の図絵馬」に描かれている。
百済寺城は山城の最後の形、安土城は平城の最初の形と云われている。 「百済寺天下遠望之図」の掲示板がある展望台に到着、太郎坊の山がある。
天下遠望の名園である「喜見望郷庭」から渡来系の人々が母国を遠望したと言う。
展望台から山道を歩いて表参道へ、途中に、弥勒半跏石像がある。 山道脇には城砦化された百済寺城の一部である石垣遺構がある。
表参道に出る、流石に大勢の参拝者の姿がある。 仁王門へと続く石垣参道は地上の天国の入口で、信長が安土城本参道造成時のモデルにした。
仁王門には、五木寛之が「百寺巡礼」で紹介した百済寺の「願掛けの大草鞋」が掲げてある。
参道脇にある千年菩提樹は「仏陀の聖樹」として崇められている。 本堂が見えてきた。
「百寺巡礼」には、「…石垣があって…本堂がまるで空中楼閣のように…空中に浮かび上がって…」とある。
百済寺の本堂は1650年竣工で、秘仏本尊は十一面観音立像である。
百済寺の梵鐘は、余韻の長さ、音色の美しさから昭和の名鐘と云われている。 下りは、石垣参道を通らずに、紅葉の小道を歩く。
時期的にやや遅かった感じはあるが、紅葉を十分楽しむことが出来た。
百済寺
地図の中央の矢印が百済寺です <滋賀県東近江市百済寺町にて>
百済寺の紅葉を、下記の百済寺の紅葉のボタンをクリックして48枚のスライド写真でご覧ください。