佐倉城址      2016年6月3日


   江戸時代この地の中心地だった佐倉城の馬出し空堀

 花菖蒲祭り開催中の佐倉城址へ向かう。 佐倉城は日本100名城に選ばれている。  2012年12月22日に参観した国立民族博物館の駐車場に駐車する。  佐倉城は戦国時代、鹿島幹胤が築城を開始したのが始まりである。  佐倉城は、1610年徳川家康の命を受けた土井利勝により築城された。  駐車場から博物館の南西側に出ると、左手に「馬出し空堀」が広がっている。  馬出は城門前に築いて、人馬の出入を敵に知られぬようにした土手である。  発掘調査により、長辺121m、短辺40mのコの字型、深さ5.6mの規模と確認された。
 木門跡前の広場では、幼児が先生に連れられて野外活動に勤しんでいる。  この辺りに佐倉陸軍病院があった。 兵舎の基礎に転用された佐倉城の礎石も見られる。  本丸からの最初の門になる「一の御門」があった跡に来る。 一の御門の前には佐倉城の本丸跡の広場が広がっている。  本丸を土塁で囲んでいる。 佐倉城は石垣のない土造りの城だった。  丸広場の一画に、木造銅瓦葺二階三層造りの銅櫓が建っていた跡があり、児童が説明を聞いていた。  この銅櫓は太田道灌が造った物と言われ、土井利勝が将軍から拝領し、江戸城吹上庭内より移築した。  本丸広場では、明日からのイベントに備えて、テントが張られ、準備が進められていた。  本丸の庭木の一つだったと考えられる佐倉城の夫婦モッコクがあり、木には、彫り込んだ兵士の文字が見える。  本丸広場の片隅に天守閣跡がある、此処に、独立式層塔型3重4階の天守閣が建っていた。
 正岡子規は、1894年に佐倉の地を訪れ、「常磐木や 冬されまさる 城の跡」の句を残している。  堀田正睦公とタウンゼント・ハリス氏の銅像の前で、児童たちが先生の説明を受けていた。  堀田正睦公はハリスと日米修好通商条約を結んだ人物で、タウンゼント・ハリスは開国のために来日したアメリカ総領事。  家老屋敷が置かれた三の丸の前には、木造本瓦葺二階造りの三の門が建っていた跡がある。  三の丸を囲む空堀を通り過ぎ、花菖蒲園に向かう。

     佐倉城址 地図の中央の矢印が佐倉城址です      <千葉県佐倉市城内町にて>
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 佐倉城下町花菖蒲まつり会場の佐倉城址の花菖蒲園

 空堀を進むと、右手に水面に蓮が浮かんでいる「姥が池」があり、左手には花菖蒲園がある。 姥が池には、天保年間に、家老の娘をお守りしていた姥が娘を池に落としてしまい、姥も身を投げたという伝説が残っている。 江戸時代中頃の書物の「古今佐倉真佐子」には杜若の名所の姥が池で、数千匹の蛙が蛙合戦をしたと記されている。 姥が池も亀が我が物顔でのさばっている、左手奥に花菖蒲園がある。 姥が池の蓮の花を十分眺めた後に、花菖蒲園に向かう。
菖蒲園では明日の花祭りのイベントの準備で、関係者が大勢動き回っている。 佐倉城址の花菖蒲は6月上旬から中旬が見頃とのことで、今年は今日でも咲き誇っている。 今年の「佐倉城下町 花菖蒲まつり」は6月4日(土)と5日(日)に開催される。 佐倉城址公園の花菖蒲を十分楽しんだ後、公園を出て印旛沼に向かう。 印旛沼は千葉県最大の、利根川水系の湖沼であり、印旛沼公園があるので公園に向かう。
駐車場は公園の北にあり、南に印旛沼が広がり展望台があるので向かって歩く。 遊歩道を進むと、印旛沼が見えてくる。 印旛沼は北部と南部の調整池に分かれているが、見えるのは北部の調整池である。 展望台は小高い丘の上の、鎌倉時代の諸戸城址の跡に造られている。 展望台から南を望む。 左側には印旛放水路の新川があり、渡ってきた舟戸大橋が架かっている。 印旛沼は通常印旛水路を経由して利根川に流れ込むが、増水時には印旛放水路の新川を経て東京湾に注ぐ。 南東を望むと、左に鹿島川に架かる飯野竜神橋、中央に聖隷佐倉市民病院が見える。 印旛沼は左手の狭い印旛水路を経て、北部調整池(印旛沼)に至る。 印旛沼を最後に今日の散策を終え帰路に就く。

佐倉城址の花菖蒲園を、下記の「佐倉城址の花菖蒲園」のボタンをクリックして25枚のスライド写真でご覧ください。  


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