根津神社の躑躅がそろそろ見頃になったとの情報により、秋葉原駅を経由して日暮里駅で降りる。
駅から西に向かって歩くと御殿坂がある。 右手に、太田道灌の孫太田資高が開基の本行寺がある。
更に歩くと、同じく右手に、彰義隊をかくまったため、攻撃を受けた「経王寺」がある。
この先に進むと谷中銀座の商店街があるが、左折して谷中霊園に向かう。
細い道を進むと左手に、彫刻家朝倉文夫氏の台東区立朝倉彫塑館がある。
この辺りは寺町で寺院が並んでいる、右手に日蓮宗派の長光山龍泉寺がある。
龍泉寺の南にある観音寺は「赤穂浪士ゆかりの寺」として知られている。
観音寺の本堂に向かって右側にある宝篋印塔は、四十七士慰霊塔として古くから伝えられている。
寺は赤穂浪士の会合が開かれた事で知られているが、寧ろ、
瓦と土を交互に積み重ね、江戸時代に造られた築地塀の方が有名である。
狩野芳崖の墓がある長安寺の前で左折して谷中霊園へ。
さくら通りとの十字路に到着、長谷川一夫家の墓や幸田露伴の小説「五重塔」のモデルになった天王寺五重塔跡がある。
ヘルマンリッテル博士顕彰碑や高橋お伝の墓、オッペケペの川上音二郎が立っていた銅像台座などもある。
最後に、この地に葬られた徳川慶喜の墓を訪れる。
お墓は、切石土留を囲らした土壇の中央奥に玉石畳の基壇を築き、その上に葺石円墳を築いている。
谷中霊園を出て、秀忠が1622年に、上野の地を寄進したことから始まる東叡山寛永寺へ。
寛永寺根本中堂である本堂は、1879年に川越多喜院の本地堂を移築したものである。
1625年に慈眼大師天海大僧正によって創建された。
寛永寺を出て、言問通りを南西に向かって歩くと、上野桜木交差点の角に台東区立下町風俗資料館付属展示場がある。
展示場には、腕木より軒桁が張り出している出桁造りが特徴の、明治時代の商家の吉田屋酒店がある。
帳場が再現され、薦かぶりや陶製の酒樽、商売道具、昔のポスターなどが展示されている。
言問通りの谷中六丁目交差点から北へ歩くと、再び、谷中の寺町に入り、右手に長久院がある。
長久院には六十六部造立石造閻魔王坐像及び両脇侍像があり台東区の有形文化財になっている。
長久院から更に北に歩くと、左手に瑞輪寺があり、門柱に「東京七面山 江戸十大祖師 除厄安産 飯匙祖師」の文字が見える。
瑞輪寺の飯匙は、日蓮が佐渡から鎌倉に向かう途路、飯匙に御題目をしたため難産を助けた事に由来する。
瑞輪寺から北に向かい、都道452号線に入り左折すると仮名垣魯文の墓がある永久寺がある。
永久禅寺の額が架かった本堂の横には、魯文夫婦の飼猫の供養碑「山猫めおと塚」がある。
谷中霊園の天王寺五重塔跡
地図の中央の矢印が天王寺五重塔跡です <東京都台東区谷中7丁目9にて>
谷中霊園の風景を、下記の「谷中霊園」のボタンをクリックして43枚のスライド写真でご覧ください。
根津神社に到着、神社では4月9日から5月5日まで「つつじまつり」を開催中。
神社は「根津権現」とも称され、東京十社のうちの一つである。
表参道を進み、神橋を渡ると重要文化財の楼門がある。 楼門の両脇には仁王像の変わりに随身が控えている。
根津神社は1900年余り前に、日本武尊が千駄木の地に創祀したと伝えられている古社である。
文明年間に太田道灌が社殿を奉建し、千駄木の旧社地より遷座した。
社殿は拝殿・幣殿・本殿が一体になった権現造りで、江戸の神社建築としては最大の規模である。
乙女稲荷神社までの参道の両脇には、伏見稲荷を思わせる赤い鳥居が並んでいる。
参道の途中に、六代将軍家宣公の胎盤が納められている胞衣塚がある。
乙女稲荷神社の前から、透塀の向こうに権現造りの本殿が見える。
境内の一番奥にある、境内外社の駒込稲荷神社は、いざなぎ夫妻を祀っている。
根津神社社殿の参拝を終え、目当てのツツジ見物のために楼門まで戻る。
「花より団子」ならず、「花より饅頭」ということで、先ずは甘酒茶屋に向かう。
毎年ツツジ祭りに併せて設置される甘酒茶屋には、この時期しかお目にかかれない甘酒と酒饅頭がある。
池を見ながら頂いたが、甘酒は小さな湯飲みに一杯でやや物足りなかった。
神社のつつじ苑には、シロヤシオなど約100種3000株のツツジが植えられている。
いよいよツツジ苑へ参入、中に入ってみると、外で見るよりは花は開いていた。
登山の時に山道で見る、白八汐躑躅とも、五葉躑躅とも呼ばれる「シロヤシオ」も咲いている。
思った以上に開花していたツツジの満足して根津神社を出て、
千駄木二丁目交差点から不忍通りを北に向かって日暮里駅まで歩き帰宅する。
根津神社
地図の中央の矢印が根津神社です <東京都文京区根津1丁目28にて>
根津神社の躑躅を、下記の「根津神社の躑躅」のボタンをクリックして39枚のスライド写真でご覧ください。