2月2日の節分の日に、葛飾八幡宮の節分の豆撒きを参観するために、
総武線本八幡駅で下車する。
駅前から県道202号線の八幡中央通りを北進し、京成本線の踏み切りを渡ってから右折して、
葛飾八幡宮参道の鳥居の前に出る。
鳥居を潜って北に進むと、「八脚門」と呼ばれる構造形式の随身門が見えてきた。
随身門の両袖にあった仁王像は、明治維新の神仏分離時に現在の随神に替えられ奉安された。
門を潜ると、前方の葛飾八幡宮社殿の前には大勢の人が集まっている。
葛飾八幡宮は寛平年間に、宇多天皇の勅願によって勧請された。
社殿の中から人が出てきて、お払いが始まったが、その後一向に動きが無いので境内を散策する。
先ず目に付くのは、鐘楼近くにある、源頼朝公が戦勝と武運長久を祈願した時に馬が前足を掛けたと云う
「駒どめの石」と社殿の横にある、多数の樹幹が集まった「千本公孫樹」。
境内にはその他に、「葛飾天満宮」「厳島社」「八坂社」「尾上稲荷社」などの社や、
昔、約170kgの石を持ち上げ担ぎ、肩にさして御社殿を1周し力を競い合ったと云う「力石」がある。
社殿では豆撒きが始まった。 投げられたものは、群衆の途中までしか届かない。
結局、一つも拾うことも無く豆撒きは終わってしまった。
葛飾八幡宮を出て、京成八幡駅から京成線に乗り、船橋大神宮へ向かう。
葛飾八幡宮
地図の中央の矢印が葛飾八幡宮です <千葉県市川市八幡4丁目2にて>
葛飾八幡宮の豆撒きの風景を、下記の「葛飾八幡宮」のボタンをクリックして24枚のスライド写真でご覧ください。
手児奈の里を訪れて総武線の市川駅に下りる。
手児奈伝説は高校生の時に学んだが、市川市の話とは知らなかった。
市川駅の両側にはタワーマンションが建っていて首都圏の衛星都市の典型である。
いちかわザタワーズの双子ビルは市川駅の目印になる。
市川駅から北に向かって、左手に「市川手児奈通り」、右手に「真間銀座通り」が延びている。
市川手児奈通りを北に進み、千葉街道を横切ると、
間もなく右手に創建不詳であるが家康の道中記録に残る「八幡神社」がある。
神社の祭神は応神天皇で、境内には樹高15mの楠がある。
神社から更に進むと、京成本線の踏み切りに出る。 市川真間駅から電車がやってきた。
踏み切りを渡って先に進むと、真間川に架かる手児奈橋に来る。 左手に真間小学校がある。
この辺りは、手児奈に由来する知名に溢れている。
手児奈橋の下流にある入江橋を通る大門通りに、手児奈霊堂の入口がある。
手児奈を最初に知ったのは、山部赤人の歌の「我も見つ人にも告げむ葛飾の 真間の手児奈が奥津城処」である。
万葉集には続いて、「葛飾の真間の入江にうちなびく 玉藻刈りけむ手児奈し思ほゆ」の歌が載っている。
真間の入江とは市川市の北部の下総台地と京成電鉄の間に出来た入江と云われている。
万葉の時代には、既にこの地の真間に、手児奈伝説が伝わっていたと思われる。
手児奈霊神堂に参拝、境内には、可愛い手児奈が書かれたハート型の手児奈霊堂の絵馬や
歌手のさだまさし氏が奉納した「縁結び 桂の木」が見られる。
敷地内にある真間稲荷神社に参拝。
手児奈霊堂の北に亀井院があり、入口に「真間井」に関する「真間万葉顕彰碑」が立っている。
亀井院は日蓮宗寺院で1635年に日立上人が建立した寺である。
亀井院にある井戸が、万葉集にある「真間の井戸」であると云われている。
万葉集には、高橋虫麻呂が手児奈の伝説を聞いたとて残した、
「勝鹿の真間の井見れば立ちならし 水汲ましけむ手児奈思ほゆ」なる歌が載っている。
真間の井
地図の中央の矢印が真間の井です <千葉県市川市真間4丁目4にて>
手児奈霊堂と真間の井を、下記の「手児奈霊堂と真間の井」のボタンをクリックして36枚のスライド写真でご覧ください。
真間川に架かる入江橋を渡り、大門通りを北に進むと弘法寺へ上がる石段にぶつかる。
石段を登ると弘法寺の仁王門があり、南を望むと、市川市の駅前に立つ「いちかわザタワーズ」が見える。
門の横には、「真間寺で斯う拾ひしょ散紅葉」の一茶の句碑がある
弘法寺は奈良時代に行基が真間の手児奈の霊を供養するために建立したと云われている。
仁王門を潜ると正面に弘法寺の本堂が見える。
奈良時代、空海が伽藍を構えて「弘法寺」と改称したと云う。
弘法寺は日蓮宗の本山の由緒寺院である。 鎌倉時代に日蓮の布教を受けて日蓮宗に改宗した。
室町時代には山下に真間宿といわれる門前町が発展した。
弘法寺7世の日与が1501年に手児奈霊堂を建立した。 江戸時代は紅葉狩りの名所として知られていた。
弘法寺の本堂に参拝し、客殿と祖師堂の前を西に歩くと赤門がある。
赤門は、正式には「朱雀門」と呼ばれ、弘法寺で最も古い建物である。
赤門を入ると太刀大黒尊天を祀った大黒堂がある。
太刀大黒尊天神像は日蓮が自ら彫刻したもので肌身離さず身に着けていたと云われている
大黒堂の南にある「弘法寺古墳」は全長43mの前方後円墳で築造年代は6世紀後半から7世紀前半と云われている。
弘法寺の仁王門から石段を降りて、大門通りを南に進むと「真間の継橋」がある。
昔は、この辺りに「真間の入江」があり、洲から洲に橋が掛けられていた。
万葉集には、読み人知らずの歌として「足の音せず行かむ駒もが葛飾の 真間の継橋やまず通わむ」が載っている。
「足音のしない駒があれば、真間の継橋渡って何時でも手児奈の元に通えるものを」と云う意味だろうか。
真間の継橋から下総国分寺を目指して須和田公園へ。 園内には須和田遺跡がある。
須和田遺跡弥生時代中期から平安時代初期至る集合住宅である。
須和田公園から、史跡「下総国分僧寺跡」へ。
国分寺の建立年代は不詳だが、741年春に聖武天皇は全国に国分寺建立の詔を発した奈良時代であることは確実である。
下総国では、市川に国府があったので、この地に国分寺が建立された。 現在の本堂や南大門などは昭和に再建されたものである。
国分寺参拝後、巨大なやかんで知られている「玉王山宝珠院」や隣の天満宮に参拝し、
住宅街を迷いながら手児奈橋までたどり着く。
市川手児奈通り脇で見つけた、「ものおもい」や「こかげ」を見ながら、間もなく市川駅へ。
真間の継橋
地図の中央の矢印が真間の継橋です <千葉県市川市真間4丁目6にて>
真間の継橋と下総国分寺を、下記の「真間の継橋と下総国分寺」のボタンをクリックして45枚のスライド写真でご覧ください。
総武線の下総中山駅で下車して、先日の3月29日に中山法華経寺を訪れたが、、
十分に参観できなかったので、5月18日の今日、再び訪れる。
下総中山駅北口から駅前通りである、県道203号線を北東に向かって歩く。
国道14号線の千葉街道との交差点に至ると、左手に、大本山法華経寺、中山鬼子母神の看板が見える。
一段と狭くなった道を更に進むと、京成本線の踏切に至る。 踏切の西側に、京成本線の京成中山駅がある。
踏切を渡ると、黒門と呼ばれる中山法華経寺の総門がある。 形式は高麗門で切妻銅板葺きの屋根を持つ。
総門を潜ると右手に、市川市が管理する清華園がある。
清華園は石井家が江戸時代の中頃、「清華堂」と云う店名の文房具店と書店を設けた場所にある。
中山参道を更に進むと、赤門と呼ばれる山門に至る。 正面の扁額「正中山」は本阿弥光悦の筆である。
山門の前には、光雲源作の立正安国を説くお祖師さまの像が立っている。
中山法華経寺は日蓮の足跡が認められる日蓮宗の霊跡寺院・大本山である。
鎌倉時代、この地には千葉氏の家臣富木常忍・太田乗明の館があった。
立正安国論により迫害をうけた日蓮は、常忍のもとに身を寄せたと云われている。
参道を進むと左手に、正中山修法の相伝を使命とする加行道場の、「荒行堂」と通称される正中山遠壽院がある。
正中山遠壽院は「根本御祈祷系授的傳加行所」と称され、約400年の伝統と歴史を有している。
現在、日蓮聖人直授伝来、唯一無二の祈祷相伝書を格護している加行道場である。
参道の終点にある、擬宝珠の代わりに石榴が取り付けられている赤い龍渕橋を渡り、
左手を見ると、右に祖師堂、左に妙見堂が見える。
祖師堂は1678年に上棟された日蓮聖人をお祀りする堂で、国内では、比翼入母屋造りは、
祖師堂と吉備津神社本殿だけである。 お堂には中老日法上人の作の日蓮聖人像が安置されている。
妙見堂の妙見は北極星を「妙見さん」と愛称さんと呼んでいることによる。
室町時代後期に再建された重要文化財で、日蓮宗仏堂としては最古の一つである法華経寺法華堂、
室町時代後期の建築の、法華堂の前にある重要文化財の四足門、法華経寺守護の宇賀徳正神の本社である宇賀神堂、
清正公大神堂、太田稲荷などに参拝する。 更に奥に進むと法華経寺の寺宝を保管している聖教殿がある。
聖教殿には、「立正安国論」「観心本尊妙」など日蓮の真筆遺文などの多くの宝物が所蔵されている。
聖教殿への入り口には宝殿門があり、太客殿、荒行堂、祖師堂を結ぶ回廊にもなっている。
法華経寺の本院に向かう、左手に、法華経寺法華堂、奥に鬼子母神堂がある。
法華経寺は日蓮大聖人が最初に教えを説き、開いた零跡寺院である。
1622年に建立された法華経寺の高さ30mの五重塔は、池上本門寺や上野寛永寺と略同類の塔である。
昭和55年の修理で外部に弁柄塗りが施された五重塔を最後に、中山法華経寺の参拝を終わって帰路に就く。
山中法華経寺
地図の中央の矢印が山中法華経寺です <千葉県市川市中山2丁目10にて>
山中法華経寺を、下記の「山中法華経寺」のボタンをクリックして55枚のスライド写真でご覧ください。