上田城      2015年10月22日


 1994年に復元された上田城の表玄関である南櫓と東虎口櫓門

 「いで湯と文化の里」青木村にある信州田沢温泉の富士屋ホテルにて朝を迎え、 先ず、部屋付の掛け流し温泉に入って目を覚ます。  十観山と滝山の山間の標高700mの地点にある田沢温泉は、紅葉が進んでいて庭の木々が紅に染まっている。  田沢温泉は飛鳥時代の後半、役の行者によって発見されたと伝えられている。  掘削自噴した温泉を部屋に掛け流しで提供している。  大江山の鬼退治で有名な坂田金時誕生の温泉との伝説が伝わり、有乳湯、 子宝の湯、子持ち湯、はらみ湯などと呼ばれている。  富士屋ホテルの向い側に、藤村が滞在した「ますや旅館」がある。  1989年7月29日に、吉野温泉湯元旅館の藤村が逗留した部屋に宿泊したのを思い出した。
 田沢温泉を後にして、国道143号松本街道を上田に向い、二の丸橋を渡って城内に入り、二ノ丸跡の駐車場に到着。  上田城址の南西角には県宝の西櫓があり、来年の大河ドラマ放映に合わせて現在補修中で近寄ることは出来ない。  西櫓は尼ヶ淵の河岸段丘上に築かれた本丸隅櫓、外壁は板張(下見板)で、1628年に建てられた建築当初の建物である。  当時、城の南の石垣の下には、千曲川が流れ、緩やかな深みのある流れが天然の堀となっていた。  千曲川の天然の堀を「尼ヶ淵」と称したことから、上田城は「尼ヶ淵城」とも呼ばれていた。  西櫓の東の石垣の下には、真田井戸があり、城北の太郎山脈の砦や上田藩主居館への抜け道があったと云う。  千曲川に沿った城壁の東側には、南櫓があり、一旦、売却された移築されたが、 上田市によって買い戻され、1949年に城内に再移築された。
 上田城は1583年に、真田昌幸によって築かれた平城で、上田盆地のほぼ中央に位置している。  上田城は南からの登城口は無く、現在でも、西櫓の西か、東側の二の丸橋から入城する。  尼ヶ淵から二ノ丸堀跡のけやき並木遊歩道を進むと二の丸橋の下に出る、この堀には、上田温電北東線の電車が走っていた。  二の丸堀跡から上に登って、二の丸橋の上に出る。 石垣の向こうに二の丸跡がある。  城内に入ると、掲示板の前でガイドが解説中。 来年の放映に備えて、「真田丸」大河ドラマ館を建設中である。  上田城の南櫓と東虎口櫓門の前に出る。 ここから上田城の見学が始まる。

  上田城   地図の中央の矢印が上田城です      <長野県上田市二の丸2>
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真田十勇士おもてなし隊のおもてなしを受けて、一緒に記念撮影

 東虎口櫓門から本丸跡へ、城門の右手には、城内最大の直径3mの真田石がある。  真田石は真田信之が松代移封の際持ち去ろうとしたが不動であったとの伝説がある。  東虎口櫓門から真田神社の鳥居が見える。  上田城址には、本丸跡に真田神社が建っているのみで、後は、3つの櫓と櫓門があるだけだ。  真田神社御由緒によると、この地には、天地四方を祭る「六所明神」が鎮座し、国のまほろばとして尊ばれていた。  明治維新後、郷土を愛する人々により、本丸に代々の藩主を祭る真田神社が建立された。  神社では、真田昌幸公・幸村公が祀られている。
 参道横には、岡崎酒造の酒樽から造った茶室「百余亭」と、真田幸村が大坂夏の陣で被った朱色で鹿角型の「赤備え兜」がある。  御神木の真田杉は、かって城址に老杉が林立していたが、今は数本を残すのみである。  現在、来年の大河ドラマ「真田丸」の放映に先だって、城址の至る所でクレーン車やブルドーザーが活躍している。  南櫓・東虎口櫓門・北櫓が公開中とのことで、南櫓に登り東虎口櫓門へ。  櫓の上からは、東虎口櫓門の前の広場のおもてなし隊の姿も見える。  東虎口櫓門には、観光客向けに火縄銃が置かれていて、銃を持って記念撮影することが出来る。  北櫓へ、この建物は1994年に再建された。 横に六文銭の赤い旗が見える。  北櫓と南櫓と共に、明治11年から昭和初期まで遊郭として移設利用されていた。
 上田城址は桜の名所であり、城址内の木々の紅葉はかなり進んでいる。  西櫓に向かうが、真田井戸と共に、現在補修中で立ち入り禁止である。  東虎口櫓門を出ると真田十勇士のおもてなし隊が活躍中、子供の頃、最初に読んだ時代物は「猿飛び佐助」だった。  真田十勇士おもてなし隊のおもてなしを受けて、一緒に記念撮影。 来年の喧噪さが思いやられる。

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 「真田氏発祥の地」の石碑が立つ

 東虎口櫓門を出て、本丸を囲むお堀の外側を左回りに歩く。 左手に南と北の櫓が見える。  上田城を舞台に行われた、第一次、第二次上田合戦で徳川の大軍を撃退し、上田城は天下にその名を轟かせた。  城は関ヶ原の合戦後に廃却され、藩主であった真田信之は松代へ移封になった。  上田城は小諸から入封した仙石氏により再興され3代から5代の城主になった。  1706年に藤井松平の松平忠周が6代城主として入城し、明治維新まで12代の藩主を務めた。  朝の散歩コースの藤井の里のお殿様が、上田城の城主になったと知って吃驚。  城めぐりの面白さは、近隣に住んでいた松平氏や家康の重臣が、全国の城主として発見出来ることである。
二の丸跡に建てられた上田市立博物館に寄る。  博物館内では、真田昌幸の甲冑の展示や、ノーベル賞レベルの山極勝三郎博士の資料館がある。  お堀の北東角に当たる部分は、「本丸土塁の隅おとし」と云われ、土塁の北東隅を切りこみ「鬼門除け」とされている。  上田城散策を終え、今話題の真田氏ゆかりの郷に向かう。  国道144号線を北東に走って、上信越自動車道を横切る。 下原の交差点の次の交差点の右角にローソンがあり、 道路の反対側に「真田氏発祥の郷」の石碑が立っている。  交差点を右折して、左手に、真田氏記念公園を見ながら進むと、御屋敷公園に着く。
 御屋敷公園は真田氏ゆかりの郷の数少ない観光地の一つで、真田氏館跡や真田氏歴史館がある。  歴史館では、武田二十四将だった真田幸隆の戦いの足跡を展示している。  真田氏歴史館の敷地内にある「真田庵」で名物のおはぎを頂く。  真田庵を出て、公園に入ると、最初に出陣広場があり、西側に真田氏館跡がある。  南の大手門跡からはいると皇太神社の拝殿らしき建物がある。  神社は真田幸昌が上田移転の折り、この地に祭ったもので、境内は躑躅の名所になっている。  御屋敷公園を最後に真田氏縁の上田市を離れ、上信越から長野、中央、東海環状、東名の自動車道を走り帰宅する。

  真田氏発祥の郷   地図の中央の矢印が真田氏発祥の郷です      <長野県上田市真田町本原にて>
真田氏ゆかりの郷を、下記の「真田氏ゆかりの郷」のボタンをクリックして27枚のスライド写真でご覧ください。  

 
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