八面山と東条城址      2015年10月02日


 八面山展望台から北を望む、右上から矢作川が流れ下る

 矢作古川の右岸、八ッ面東交差点の横にある駐車場に車を置き、八ッ面山公園の散策に出かける。  八ッ面山山頂には、車道が通じているが、今回は八ッ面交差点の横にある、山腹円周遊歩道への階段から登る。  八ッ面山は男山と女山からなる双子山で、外周の遊歩道が瓢箪状に取り巻いている。  遊歩道を左回りに歩いて、南側に出ると、八ッ面焼窯跡がある。 石段を登って久麻久神社へ。  久麻久神社の創建は不詳であるが、延期式神明帳所載の古社で近郷十七ヶ村の総氏神だった。  崇神天皇の頃、丹後国与謝の里より久麻久一族が開拓し、その産土神が久麻久神社と伝えられている。  本殿は室町時代後期の代表建築とされ、国の重要文化財に指定されている。 神社の御神木は連理の枝のシイの木である。  八ッ面山は領家変成岩で構成され、白雲母を含む巨晶花崗岩の岩脈が通っている。
 男山山頂には、標高67mの展望台が建ち、西尾市街が見渡せる。  南西を望む、三河湾の向こうに知多半島の山々が見える。  東を望むと、八ッ面山配水場の塔が見える、背後に見えるのが、国道23号線の岡崎バイパスである。  北を望むと、矢作川が流れ、左に、赤い志貴野橋、右に、赤い小川橋が見える。  右手には、西尾自動車学校、後方に、白い建物のアイシン・エイ・ダブリュ本社がある。  西を望むと、西尾市民病院、左手奥にマンションのゼルクタワー西尾が見える。  三河湾を望み、知多半島から佐久島、渥美半島を確認して山を降りる。 東側を流れる矢作古川へ。  河岸にある、小町娘と若侍の話の「虚無僧松の伝説」が伝わる「謎掛け松」を最後に、 八ッ面山公園を後にする。

  八面山   地図の中央の矢印が八面山です      <愛知県西尾市八ツ面町麓にて>
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城門と見張り櫓が建つ西尾吉良家の故郷の東条城址

 八ッ面山から東条城址へ向かう。  寺崎交差点から、県道318号線を東に走ると、右手に、登城口への石碑がある。  東条城は、1590年に家康が関東に移った後廃城になった、現在の遺構は当時の姿を伝えるものである。  登場口から坂を登ると茶臼山の尾根の先端にある高台に出る。 左に二の丸、右に三の丸の跡がある。  東条吉良氏三百余年の居城であった東条城跡は、今は古城公園になっている。  二の丸跡には八幡社がある。 二の丸跡から坂を登ると本丸に至る。  三の丸から本丸に入るところに城門があり、脇に物見櫓が建っている。
 1222年頃、足利義氏が三河守護・吉良荘地頭となり、 義氏の三男義継は吉良荘東条を譲られ、東条吉良氏の祖となった。  吉良氏は足利一門として栄え、この地は三河・遠江支配の重要拠点であった。  南北時代、四代貞家は奥州管領として東国に赴き、関東吉良氏の祖になる。  応仁の乱では、十代義藤は西条(西尾)吉良氏と争った。  十二代持広は松平清康の妹を娶り、広忠の親代わりとなり松平一門の危機を救った。  家康は吉良・今川氏と戦い、1561年に東条吉良家は滅亡する。  家康は十三代義安の子義定を再興させ、江戸時代の高家吉良氏になる。  この地には、歌人冷泉為和、連歌師宗長が訪れ、信長や家康も鷹狩りをしたと云う。
 東条城址の次は、吉良西条氏の居城である西尾城に向かう。  西尾城がある西尾市歴史公園へ。 先ず、西尾城の守護神である御剱八幡宮に参拝、西尾市資料館で1時間余り説明を受ける。  西尾城は足利義氏が築城した西条城が始まりで、1996年に三重櫓である本丸丑寅櫓が再建された。  1764年に山形から大給松平が6万石西尾藩主として入城した。  大給松平は入城以来廃藩まで5代続いた。 今日は鎌倉時代の東条家から高家吉良氏、西尾廃藩までの歴史を勉強できた。  二の丸表門の鍮石門を最後に西尾城を後にする。

  東条城址   地図の中央の矢印が東条城址です      <愛知県西尾市吉良町駮馬城山にて>
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