津城跡とのぼの公園     2015年05月10日


 天守に相当する高い格式を備えていた丑寅櫓

 伊勢自動車道の安濃サービスエリアに寄ってから、津城跡を目指す。  津市役所の駐車場に車を置いて、お堀沿いに歩くと、お城公園の入口があり、中に入ると、 1820年に藩校の有造館の講堂の正門として建てられた「入徳門」がある。
 お城公園は津城跡に造られた公園で、1580年には五層の天守閣があった。  公園の北東の角まで歩き、石垣の上に登る、北側にお堀が広がっている。  石垣の上からは、津城本丸の東北隅に位置する櫓の丑寅櫓が見える。  丑寅櫓は、城内最大の櫓で、他城では天守に相当する高い格式を備えていた。  平面規模五間四方の層塔型三重三階の櫓で、現在の丑寅櫓は、 1958年に復元されたものである。
 津城は別名安濃津城とも云われ、藤堂高虎により近代城郭として大改修された。  公園の中央には、塔堂高虎の騎馬像が立っている。 津城は明治維新まで藤堂氏の居城となった。  塔堂高虎を祀った高山神社に参拝。  高虎は、連戦連勝,負け戦知らずで、75歳の生涯を終え、外様大名ながら家康公の厚い信任を受けた。  躑躅が彩り始めた津城跡を後にして、亀山市の亀山市歴史博物館に向かう。
  津城跡のお城公園   地図の中央の矢印がお城公園です      <三重県津市丸之内27にて>
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 景行天皇皇子の日本武尊の墓に治定されている能ぼ野王塚古墳

 亀山市歴史博物館周辺でイベントがあり、駐車できなかったので、パスして、のぼの公園に来る。  のぼの公園は県道639号名越長明寺線沿いにあり、古事記の舞台として知られている。  日本書紀や古事記によると、日本武尊は東征の帰路に、「能ぼ野」で亡くなられ、墓が営まれたとされている。
 先ず、最初に、公園内にある能ぼ野神社に向かう。 神社は、日本武尊を主祭神とした県社である。  能ぼ野王塚古墳が、1879年に内務省が日本武尊の墓であると治定し、能ぼ野陵となった時、神社の創建が企画され、 1895年に社殿が竣工し、鎮座御がとりおこなわれた。  社殿には、御祭神日本武尊・能ぼ野神社の文字が見られる。
 次は、宮内庁により「能ぼ野墓」として、第12代景行天皇皇子の日本武尊の墓に治定されている能ぼ野王塚古墳に参拝する。  古墳は、古来、丁子塚と呼ばれ、墳丘長90m、4世紀後半の築造と考えられている。  日本武尊の陵は、白鳥塚、武備塚、双児塚、王塚が候補にあがり、 1876年教部省が白鳥塚を陵墓と治定したが、1879年に内務省が陵墓を王塚と定めた。
 のぼの公園から加左登調整池の東にある「加左登神社」へ向う。   神社は祭神として、日本武尊を祀っているが、神社の創建は不詳である。  神社は日本武尊の能ぼ野陵墓と伝えられる白鳥塚古墳の横にあり、古来、御笠殿社と呼ばれていた。  神社には、日本武尊が死の間際まで持っていたと云われている笠と杖を御神体として祀っている。
 三重県下最大の帆立貝式古墳である白鳥塚古墳へ。   本居宣長や平田篤胤らは、白鳥塚古墳を古事記にある日本武尊の能ぼ野陵墓として最有力視していた。  白鳥塚古墳は1876年に陵墓に指定されたが、1879年に宮内省に覆され、王塚古墳が陵墓にされた。  白鳥古墳を最後に日本武尊の旅を終える。
  のぼの公園ののぼの神社   地図の中央の矢印がのぼの神社です      <三重県亀山市田村町にて>
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