太宰府市唯一の天然温泉の宿である「ホテルグランティア太宰府」で、朝風呂に入って
気分を一新させてから、先ず、源氏物語にも登場する「観世音寺」を尋ねる。
天下の三戒壇として、観世音寺の境内に建てられた戒壇院と1688年に再建された観世音寺の本堂に参拝。
妙心寺鐘、当麻寺鐘と並ぶ日本最古の梵鐘の一つで、国宝に指定されている梵鐘をじっくり眺める。
境内には梵鐘以外には、往時の繁栄を伝える面影は見当たらないが、宝蔵に入り、
5m前後の巨大な観音像を目のあたりにして、初めて大宰府の偉大さを実感できた。
観世音寺の次は大宰府政庁跡に向かう。 途中に当時の学校院跡や旅人の歌碑がある。
大宰府展示館に入り、係員の解説を伺ってから、政庁跡へ。
小野老の青によしの歌碑を眺めてから、南門跡へ。
南門の北に中門、正殿の跡があり、回廊で繋がれていた。
南門と中門の間には、西脇殿と東脇殿の礎石も見られる。
広い政庁跡を歩き回ってから、次の目的地の吉野ヶ里へ。
大宰府政庁跡
地図の中央の矢印が大宰府政庁跡です <福岡県太宰府市観世音寺4丁目6にて>
観世音寺と大宰府政庁跡の風景を、下記の「観世音寺と大宰府政庁跡」のボタンを
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長崎自動車道の東脊振インターで下りて、吉野ヶ里歴史公園へ。
公園では「弥生人の声が聞こえる」を基本テーマに、当時の施設が復元展示されている。
マスコットキャラクターの「ひみか」に迎えられ、田手川に架かる天の浮橋を渡ると
弥生人の世界であり、且つ、邪馬台国卑弥呼の世界でもある異空間に突入する。
鋭く加工された柵を通り過ぎると、魏志倭人伝の記述を思わせる、
周りを城柵に囲まれ、両側に物見櫓を従えた南内郭の南の正門の前に出る。
、
南内郭は支配者層が生活していた場所と考えられ、ボランティア・ガイドに案内して貰い、
物見櫓からの景観や、王や大夫の館など解説して頂く。
北側の物見櫓からは、北内郭の城柵と大型建築物が見える。
案内書によると、吉野ヶ里の集落が最盛期を迎えたのは弥生時代後期後半で、紀元3世紀頃と
書かれている。 将に卑弥呼の時代であるが、その後、突然衰退し、古墳が出現することから、
邪馬台国九州説には、やや無理があるようだ。
ガイドさんにお礼を言って、南内郭から北内郭へ。
吉野ヶ里歴史公園
地図の中央の矢印が吉野ヶ里歴史公園です <佐賀県神埼市神埼町鶴にて>
吉野ヶ里歴史公園の南内郭を、下記の「吉野ヶ里歴史公園の南内郭」のボタンを
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南内郭から北内郭へ、北内郭では、当時、祭りごとが行われてと考えられている。
北内郭の中央に主祭殿と呼ばれている大きな建物があり、祭りごとを司る最重要施設であった。
主宰殿の他に、物見櫓や斉堂、東祭殿などがあり、こちらのボランティア・ガイドによると、
主宰殿と東祭殿などの位置関係が、夏至や冬至、春分や秋分の太陽の動きと関係があり、日の動きによって、
農作物の対応時期を決めるなど、祭りごとの決定に関わりがあったのではないかと話してくれた。
主宰殿の二階に上がると、一部屋には卑弥呼らしい巫女が祈る場面が再現され、もう一つの部屋では、
王の前に多数の人が居並び、活発な議論を交わしているように見えた。
縄文時代から、日本では、話し合いの精神、和の精神が大事にされていたのだろうか。
北内郭の北には、北墳丘墓や甕棺墓列がある。
北墳丘墓は、2100年前の歴代の王などを埋葬した特別な墓で、遺構面や甕棺は本物が展示されている。
邪馬台国九州説に吉野ヶ里を組み込みながら、「ひみか」に別れを告げ、長野自動車道を走り、金立サービスエリアに
寄ってから、嬉野温泉の大村屋へ向かう。
日本三大美肌の湯の掛け流し天然温泉に浸かりながら、北西九州旅行の最後の夜を過ごす。
吉野ヶ里歴史公園の北内郭を、下記の「吉野ヶ里歴史公園の北内郭」のボタンを
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