田丸城趾         2005年3月2日


 田丸城趾の天守閣跡から玉城町の市街地を望む(左)

 1336(延元元)年、南朝方の北畑親房が、外宮神主の渡会家行らに迎えられて田辺の丘の 東端田丸山に城塞を築城したのが始まりで、 両朝合一(1392年)後北畠一族の居城となり田丸御所といわれた。  玉丸の地は大和からの波瀬街道と、紀州からの熊野街道との合流地点で軍事的要所であった。
 1569(永禄12)年の織田信長の伊勢攻めの後、信長の次男信雄が北畠氏の養子となり。 1575(大正8)年田丸に移って3層の天守閣を持つ平山城を築いた。  しかし、1580(天正8)年田丸城は火災にあって焼失し、信雄は松ヶ島城に移った。  その後稲葉氏、藤堂氏の支配を経て、1619年(元和5)年に紀州藩領となり、家老久野丹波守 宗成が城主として入り(8500石、後1万石)、久野氏代々の居城となった。

 1869(明治2)年廃城となり、2年後にすべての建物が壊され石垣を残すのみとなった。  城跡は以後御料林に編入されたが、郷土出身の朝日新聞社の創設者である村上龍平氏の援助により 1928(昭和3)年田丸町(現玉城町)の所有となった。
 城跡には、玉城町の歴史資料を展示する村山龍平記念館と玉城中学校が建っている。  玉丸の街並みには曲折した道路と乱坑状の家並といった城下町の特徴がわずかに残り、 昔の面影を伝えている。

  田丸城趾 地図の中央「+」印が城趾の有る場所です

<三重県玉城町にて>



玉城町を歩く