熟年になったこの時期になって、生まれて初めて「死の恐怖」を体験した。 それは、鎌ヶ岳から 水沢岳へ鎌尾根縦走中に起きた。 山登りは「怖いものである」と思い知らされた。  それも、自分としては安全確保のために最善を尽くした積もりなのに、自然は更に厳しかった。

 全く自由時間の無かった生活から開放され、21世紀になってから山歩きを始めた。  体力の不安から里山の登山から始めたが、若い頃から興味を持った地形図が有れば、 何処にでも行ける自信があったので、次々と新しい山に挑戦しだした。  暫くして、自分は山の怖さを知らないことに、はっと気が付き、身の危険を感じたので、朝日新聞に コラムを掲載しておられる先生の「中高年の山歩き講座」に参加して、登山の基礎知識の講座と 実地の教育を受け、今夏も北アルプスの豪雨の中で、足の運び方から、杖の使い方まで手取り足取り ご指導いただいた。 個人的にも、山と山渓社の全7巻の「山歩きはじめの一歩」や読図に関する本を 数冊購入し、ガイドブックも、鈴鹿関係では中日新聞社の「鈴鹿の山ハイキング」など数冊用意した。 

 個人的に登山するためには次の条件を前提とした
 1.降雨量ゼロの快晴の日
 2.時間的にも体力的にも余裕のある計画
 3.単独行動はしない(体力的にも、登山経験も同じ家内同伴)
 4.上記条件でも、雨具、ヘッドランプなどの装備は出来るだけ完備
 5.ガイドブックや地図での事前調査の実施(上記中日新聞社版は可成り詳しい)

 上記条件を全て満たした積もりで、今回、鎌尾根に挑戦した。  それに、メル友の女性が最近、単独で同じコースを歩かれたとの情報により、登山可能と判断した。  実際、歩いてみると、ピークが続く鎌尾根は最終の水沢岳まで、常に視野に入り、道に迷う恐れは 心配なさそうである。 不安があるとしたら、バランスを崩して滑落することを頭に入れ、危険な所は慎重に 歩くことにした。
   それでも、死の恐怖に直面したことが、私には限りないショックであった。

 前置きが長くなったが、実際の所、脇道にそれなければそれほど危険な登山コースではなかった。  それが起こったのは、衝立岩の手前のピークであった。 登山路はピークに続く道と ピークを巻く道に分岐していたが、右手の木にテープが巻いてある本道を見逃してしまったのが、 最初のミスであった。
 でも、この程度のミスは頻繁に経験し、暫くして、登山道が途切れるのに気づき、分岐点まで 引き返し、本道に戻れば特に問題ないと思っている。  登山道がピークまで続き、ピーク地点で砂場の広場になり、道が分からなくなったが、先を進めば 明瞭な登山道が現れるのでそこを更に歩き進む様なケースが多い。
 今回も、登山道らしい道を先に進むと、砂場を下り岩壁の上に出た。 そこからは下には降りられずに、 左手に肩程の高さの岩が向こうに延びていて、その下が棚状になっている。   棚状の巾が広くて、鎖でも有れば立派な登山道であるが、棚は狭くて岩にお腹をくっつけて 両手で岩にしがみつきながら、横に移動してやっと通れる程度だ。 その時点で違和感を感じ、 家内はここで引っ返そうと言い出す。 しかし、帰るには、4時間余りも歩いて来た道を戻らねば ならず、帰りの鎌尾根はピーク越えの登りである。 

 ここで決断をして引き返えさなかったのが、結果的には二つ目のミスであるが、今考えてもその決断は 難しかったように思う。 山登りのベテランならば、この道が登山道かどうか判別が出来るかもしれない。 決断を先に延ばし、もう少し様子を眺めるべく、岩にしがみつきながら、横に進む。  足下から崖になっていたものの、この時点では未だ死の恐怖を感じていなかった。
 岩に沿って進めるだけ横に進んで下を見ると、崖の下から次のピークに明瞭な登山道が続いている。 正規の登山道の場合、大変そうに見えても、近づいてみると意外と簡単に行ける場合が多い。  この時点で、正規の登山道から外れているという意識は、全くなかった。
 ああ、この崖を下りてあの登山道を行くのだなと思い、足下を眺めると、崖の下に足場になるような 小さな岩が見える。 でも前向きで下りるには崖が急なようだし、鎖も見えないのに不安を感じ、 もう少し、様子を見ようと、体を180度回転し、その場で腰を下ろして、下を眺めると10数米下に 登山道が見える。
 でも、最初の足場迄も簡単には下れそうもない。 その時は未だこの先が登山道だと思いこんでいたが、 この先は私の登山レベルを超えているので、これ以上無理をするのは危険だと判断し、 長い帰路を引き返す決心をする。
 この時点で、もう、最終ラインを越えている自分を発見して愕然とする。   死の恐怖が体を貫いたのは、危険な場所に有りながら、「三点確保」が出来ていない自分に気が付いた 時であった。 断崖の頂上にお尻の両側で両手を突っ張って、 前に倒れるのを防ぎながら、背中に崖を背負い足をぶらつかせて腰掛けているのだ。  後ろにいる家内に杖を渡し、背中のリックが崖に接触してバランスを崩すのを恐れながら、少しずつ体を 回転させ、左手で手探りしながら、右側の岩を捕まえた時、助かったと思った。 岩の助けを借りて、 体を回転させながら、立ち上がって後ろの岩にしがみついて、やっとホット出来た。  自分の事だけで精一杯で、気が付かなかったが、後の家内の話では、私が立ち上がるとき、彼女が、 片手で岩にしがみつきながら、もう一方の手でリックを持ち上げてくれた。 その時、リックが 彼女の眼鏡に接触して落ちそうになってひやりとしたとのこと。  失敗していれば、二人とも崖の下で横たわっていたかも知れない。

 今回の最大の落とし穴は、登山道がピークを巻いて崖の下を通り、問題の地点で、直角に曲がり、 崖から離れて向こうに延びており、崖の下の道は上から見えないので、この崖を下りるのが 正規の登山道と錯覚した点である。
 万全の準備をした積もりが、このアクシデントに何ら効果が無かった。 もし、再び、同様な 状態に置かれたら、危険を避けることだ出きるだろうかと自問してみると、とても自信がない。  今のところ、それの対策も思いつかない。 家内は、鈴鹿の山歩きは辞めようと言い出す。  しかし、考えようによっては、今回のアクシデントに対し、前提条件のどれが欠けても致命的な結果になったかも知れない。  運が良かったと共に、今までの努力が少しは役だったかも知れない。
 暫くの間は、ご近所のお仲間とのウォーキングに精を出すことにしようと云うことになった。

鎌ヶ岳(1161m)と水沢岳(1029m) へ