ガンジス川での奮闘記         2004年1月31日



 アクシデントの兆候は、ゴードリア交差点でバスから降りた時から始まった。  最後にバスを降りると、現地人のガイドは後を振り向きもせずに、観光客で混雑した真っ暗なダシャーシュワドメ通りを ドンドン先に進んで行く。  それらしき一団を追うも、ダシャーシュワドメ・ガートまで特定出来ず、 周りを探してやっとグループが一塊になっているのを見付ける。
 ダシャーシュワドメ・ガートで観光船に乗り、水上からガンジス川の沐浴を見学する予定であったが、 乾季なのに想定外の雨、急遽、予定変更になり、アヒルヤバイ・ガート辺りに上陸。 雨の中をタオルを頭から被り、 他の団体と一緒に移動を開始する。 タオルが邪魔になり、見失うとヤバイと思いながらも、最後尾であることに気付かず。  タオルを上げて前を見たら、ツアーの一行の姿が見えない。
 後で分かったが、ツアーの一団は、前の階段を上がり、建物の間を抜けて、元のダシャーシュワドメ・ガートの方へ消ていた。  周りの人々は大きな流れとなって、ガンジス川岸のゲートを離れて、ゴードリア・交差点の方の道に移動している。   ツアーの連中もこの流れの中に居ると思って、探しながら先を急ぐも、朝と同様見つからず。
   今度の場合は、下車地点のゴードリア交差点に来ても、韓国人らしき、他のツアーばかりで、乗ってきたバスも見当たらない。  左折したマンダンブラ通りの遥か向こうにバスを発見し、そこまで行くも、他のバス。  実は、降車地点と乗車地点が異なり、バスは乗車地点に移動していた。  この時点で、ベナレスの街の中でさ迷ったら、日本に帰れなくなる危惧が頭を掠める。
 観光船に乗るだけの予定で、持っているのはカメラとタオル、それに常時身に着けているパスポートを現金だけ。  ベナレスのゴート付近は、タクシーは入らず、専ら人力車が交通手段。  電話ボックスは勿論、ホテルらしき建物も、周りには見えない。  ホテルからの道筋どころか、ホテルの名前も曖昧で、動けば動くほど深みに嵌りそうだ。
 この後の予定は朝食後、国際線に乗ってネパールへ。 ベナレスの街をウロウロしていたら時間切れになる。  最善の方法は、山歩きの経験から、グループを見失った時点で辛抱強く待つことだと、来た道を思い出し、来た道を引き返す。  慎重に辿った筈だが、道を間違えて、乗船地のダシャーシュワドメ・ガートに出る。 この時点で周りが頭の中の地図で明確になる。
 雨が止んだので、再びガートの岸に立つ。私の不在に気づき、引き返すだけなら十数分もあれば十分なのに、1時間以上 も過ぎる。 何かアクシデントが起こったのでは無いのかと不安になる。   後で分かったことだが、ガイド側が重大なミスを犯していた。 売店での雨宿りや、寺院と火葬場の見物時に点検ミスをし、 私の不在に気づいたのは、1時間後のバスの中、この時点ではもう時間的な余裕は無く、短時間さがしたものの、 現地ガイドを残し、ツアーの一行は私をベナレスに置いてホテルに戻る。
 一行を見失った地点は、観光ルートから外れていて、もうこの時間になると、観光客などの外国人の人影は見えず。  ベナレスのガート近くは、印度全国から人が集まる巨大なスラム街で、死を待つ一団が宿るあばら屋と、 単車しか走れない入り組んだ道があるだけだ。 そこで迷ったら印度を彷徨う身分になっていたと思うを背筋が寒くなる。  目立つ高台で、見印にタオルを広げ肩から提げて立ち続けるも、再び雨が振り出し、容赦なく降り注ぐ。  後ろで大きな笠状のテントを広げ、信者たちのために、造花やリボンなどを並べて売っている露店で店番をしていた2人の少女が、 見かねたのか、「ここへ来て、雨宿りをしたら」と声をかけてくれた。  雨が止むまで、暫くの間雨宿りさせて貰う。 階層が厳密なインドで、どうみても恵まれた階層だとは思えない少女たちが、 英語をぺらぺら話すのに驚かされた。 父親は観光客相手の船頭さんだという。 雑談中でも、商売上手の少女たちで、 小物を買わされた上に、モデル料のチップまで要求された。
 雨が止んだので、人々が又沐浴を始めだす。 アクシデントをチャンスにと、望遠レンズ装着の一眼レフのカメラでガート風景を 撮りまくる。 後で、撮影禁止の火葬場は遥か遠方にあるのが分かったが、場合によっては大変なことになるところだった。
 帰国後、家族に「ヒンズー教徒の人々の灰と一緒に、ガンジス川に流されて、誰知れずに、永遠に行方不明になるところだったのに」 と云われる。 ガンジス川で沐浴する人々やガートの一角で店を開いている印度の理髪店などをカメラに収める。   予定通りならベナレス見物の後、ホテルに戻り朝食を済ましたら、直ぐにベナレス国際空港に向かいネパールに飛ぶ。 時計を見ると、離陸予定2時間前の空港到着時間が近づいてくる。 添乗員は旅券手配で空港に行っている筈だ。 私を 探しているのは、私の顔を覚えて無い現地ガイドだと思うと、不安になる。  ここに戻るまでどうしてこんなに時間が掛かるのか、何が起こったのか、いくら考えても推理できず、 一人で日本に帰国することになることも考える。
 はぐれてから2時間半も過ぎた頃、向こうから「鈴木さん」と大声で呼びながら駆けてくるインド人の現地ガイドの姿を 発見した。 時間が無い、ダシャーシュワドメ・ガートまで走ってくれと言う。 数分でそこに着くと、2台のオート バイが置いてある。  私を後ろに乗せ、もう一台を先導車にして、ブザーを鳴らして道を空けさせながら、猛スピードでホテルに直行する。  乗用車走行不能のスラム街を抜けるには確かにこれが一番早い。 バスで来た時間の半分ほどでホテルに着く。  ホテルの玄関では、空港行きのバスが待機していて、私の荷物は既に積み込み済み。 バスに飛び乗ったら直ぐに出発する。
 探されてホッとするより、どうしてこんなに時間が掛かったのかと思うと、寧ろ腹が立ってくる。  甘いチェックで、売店や寺院では、まだ、私が居たと勘違いし、少し戻っても姿が見えないので、 コースを外れてスラム街に迷い込んだと思い込み、青木が原のようなスラム街を、2台のオートバイで私の名前を呼びながら 走り回ったらしい。 バスからここまでは十数分の距離なのに。  不明者が出た場合、出発点まで戻って来た道を引き返して探すのが鉄則なのに、基本知識も無いお粗末なガイドであった。  今までの30回ほどの海外旅行の中で、死神に迫られたこの迷走の経験は特記に値する旅になった。


インド・ネパールを歩く