大喜多城     2018年1月16日


     千葉県立中央博物館の大多喜城分館である天守閣造りの歴史博物館

 養老渓谷の駐車場で係員に勧められた大多喜城址を訪れる。  大多喜城は戦国時代から江戸時代かけて存在した平山城で、初めは小田喜城と呼ばれていた。  駐車場から城址へ向かう坂の途中に、全長5.8kmのうち4kmがトンネルの大多喜城水道がある。  千葉県立総南博物館の石柱もある。 大多喜城址には、山城に多い空堀が見られる。  坂を登ると、右手に、大多喜城二の丸公園がある。 公園は二の丸跡で、丘の上には、東屋や鐘楼がある。  二の丸の高台に登り東を望むと、大多喜町の町並み、手前に、千葉県立大多喜高等学校の校舎が見える。
 大多喜城に到着、この城は千葉県立中央博物館の大多喜城分館である。  千葉県指定史跡の上総大多喜城本丸跡に建設された、天守閣造りの歴史博物館である。  常設展では「房総の城と城下町」を主題とした展示を公開している。  上総大多喜城は、戦国時代に築かれ、小田原北条氏の滅亡に伴い、本田忠勝がこの地に10万石で封じられた。  1609年にスペイン人ドン・ロドリゴが大多喜城を訪れていた。  城主は、本多氏三代のあと、阿部氏等の譜代大名が入り、最後の城主松平正質の代に明治維新を迎えた。  歴史博物館の石垣は、野面積みと打ち込みはぎの中間の方法で造られている。
 資料館に入る、館内の展示物及び掲示物は全て撮影禁止であった。  館内には大多喜城とその周辺のジオラマが展示されていた。  大多喜城の南側には、夷隅川が流れていて、外堀の代わりになっている。  東を望むと、大多喜高校の校舎の左手後方に、夷隅川に架かる赤い鉄橋の外廻橋が見える。  北を望む、左手に、大多喜高校のグランド、後方に、白い建物の川崎病院が見える。  大多喜城からの展望を堪能したあと、係員の勧めで周囲の遺蹟も散策する  大多喜高校の駐車場横に、上総大多喜城の本丸附大井戸が見える。  大井戸は1950年本多忠勝築城の際に作られたもので「底知らずの井戸」といわれた。  井戸は周囲17m、深さ20mで、井戸車16個で汲み上げられた日本一の大井戸であった。
 高校の校舎とグランドの間の道を進む、背後に大多喜城が見える。  大多喜町を中心に、「本多忠勝・忠朝」を大河ドラマにと誘致運動を進めている。  二の丸跡は、今は、大多喜高校のグランドになっている。  大多喜高校の校舎の北側に隣接して、上総大多喜城本丸跡に附大井戸薬医門がある。  上総大多喜城薬医門は大多喜城内建造物唯一の遺構である。  薬医門は本柱が中心より前方にあり、控柱を付けた薬医門形で、二の丸御殿の門であった。  廃藩の際に払い下げられたが、1973年に復元設計され建造された。  城の周囲には、NHK大河ドラマ「本多忠勝・忠朝」誘致実行委員会が掲げている 「本多忠勝・忠朝」を大河ドラマに、と書かれた幟が立っている。

     大喜多城 地図の中央の矢印が大喜多城です      <千葉県夷隅郡大多喜町大多喜にて>
大喜多城を、下記の大喜多城のボタンをクリックして42枚のスライド写真でご覧ください。


 浜松城模擬天守をモデルとした、独立式望楼型2重3階の天守閣

 大喜多城の後は、久留里城址資料館へ向かう。  乗用車130台駐車可能の大駐車場から出発、堀切跡の表示柱を見ながら長い坂を登ると、久留里城址資料館がある。  更に登ると、右手に、城将小川秀政の娘「お玉」が掘った「お玉が池」がある。  二の丸跡に建てられた、君津市立久留里城址資料館に到着、資料館の南には薬師曲輪があり、 眼下に三の丸跡が広がっている。  展望台からは、搦手門跡、三の丸御殿跡、外曲輪跡、内堀跡、戸張門跡、里見・北条古戦場跡、久留里妙見などが見渡せる。
 薬師曲輪には、雨城八幡神社と新井白石之像がある。  久留里城址資料館は1979年に天守閣とともに開館し、「故郷の歴史と自然を尋ねて」をテーマに展示している。  資料館は館内撮影禁止、野外に、上総掘り方式の井戸掘り櫓が展示されている。  資料館の前にある塀は、二の丸の長屋塀跡に建てられたmpので、 長屋塀は長屋風の建物で多門櫓に近い性格の建物である。 資料館から天守閣に向かう、途中に、天神曲輪がある。  天神曲輪を過ぎると、奈良時代の僧良弁によって掘られた「男井戸・女井戸」がある。  江戸時代、藩士の新郎・新婦がこの井戸の水を飲み夫婦の誓いをかわしたと云われている。
 波多野曲輪を過ぎると間もなく本丸である。 天守閣が見えてきた。  久留里城は室町時代の1456年に上総武田氏の武田信長によって築かれた山城である。  古久留里城は平将門の三男頼胤が築城したという伝説もあるが定かではない  信長の子孫である真里谷氏が衰え、代わって里見氏によって再構築された。  1590年、徳川家康が関東に入封した際、久留里城には松平忠政が3万石を与えられ入城した。  1742年、上野国沼田城より譜代大名の黒田直純が3万石で入城した、黒田氏は明治維新まで居城した。  1979年に、模擬天守が土壇の天守台脇に鉄筋コンクリート構造で建造された。
 再建された天守は浜松城模擬天守をモデルとしたものであり、実際に建っていたものとは大幅に異なる。  土壇の天守台跡の脇に建てられた、独立式望楼型2重3階の天守閣である。  天守閣に入館する、館内は撮影可能である。 模擬天守内の展示物は全国に現存する天守閣のパネル展示くらいである。  久留里城は歴史的な建造物と云うよりも、展望台として利用されている。  天守閣は、山に囲まれていて、展望台の役目も十分とはいえない。 古の天守閣を偲ばせる、土壇の天守台跡を見下ろす。  訪れる人も少ない久留里城天守閣を後にする。 雨城の伝説が残る久留里城を後にして今日の城巡りを終える。

   久留里城 地図の中央の矢印が久留里城です      <千葉県君津市久留里にて>
久留里城を、下記の「久留里城」のボタンを
クリックして37枚のスライド写真でご覧ください。  

次ページへ

最近のウォーキングより