姫下遺跡
2006年2月11日
現地説明に集まった古代史マニア達(左) 弥生時代から平安時代迄の遺跡が出土した姫下遺跡(右)
愛知県埋蔵文化財センターは、平成17年11月より姫下遺跡の発掘調査を実施してきたが、
弥生時代から平安時代の竪穴住居や溝が見つかり、古墳時代の土器や平安時代の陶器が出土したとして、現地説明会が実施された。
遺跡は矢作川の沖積地に立地し、鹿乗川東岸の碧海台地の東端にある。
直ぐ近くには、5世紀後半から6世紀前半に構築されたと考えられている前方後円墳である
姫小川古墳がある。
その古墳の北側には碧海台地の東端に添って獅子塚古墳、姫塚古墳、王塚古墳などの古墳が並んでおり、更にその北側には
築造年代が4世紀まで遡る前方後方墳の二子山古墳がある。
姫下遺跡のある沖積地上では、東側に八ツ塚古墳、北側は人面土器が出土した亀塚遺跡、南側には古代木簡が出土した下懸遺跡がある。
今回の発掘で、古墳時代前期(4世紀中〜後葉)の竪穴住居や古墳時代中期(4世紀末〜5世紀前葉)の多量の土器が見つかったので、
今後、これらの古墳群との関連が明かになるかも知れない。
姫下遺跡 地図の中央「+」印が寺の場所です
<愛知県安城市にて>
宮城谷昌光の「古城の風景」 E 安祥城址
安祥城本丸跡に建つ大乗寺(左) 安祥城二の丸跡に建つ八幡社(右)
安祥城は1440年に和田親平の築城とされる本格的な平山城である。
1471年、岩津城主の松平信光が攻め取り、以後4代(親忠・長親・信忠・清康)の安祥松平の居城となる。
清康が安祥城主になると、岡崎松平を攻める。
その後、松平の本拠地が岡崎城に移り、広忠・家康と続く訳で、安祥松平が徳川幕府の原点であるのだが、一般にはあまり知られていない。
案内板には「この城をめぐって松平・今川氏と織田氏との間に、1540年ら10年の間に5度に及ぶ攻防戦が繰り広げられた」とある。
安祥城址 地図の中央「+」印が城址の場所です
<愛知県安城市>
宮城谷昌光の「古城の風景」 D 五井城址 2006年1月17日
宮城谷昌光の「古城の風景」 C 野田城址 2006年1月8日
宮城谷昌光の「古城の風景」 B 桜井城址 2006年1月2日
宮城谷昌光の「古城の風景」 A 石巻山城跡 2005年12月29日
宮城谷昌光の「古城の風景」 @ 宇利城址 2005年2月23日